代々木のギャラリー千空間で、堀由樹子・展

●代々木のギャラリー千空間(http://www.senkukan.com/index.html)で、堀由樹子・展。観るのは二回目。植物が育ってゆくのを、例えば一時間に一コマくらいの速度で撮影して、それを再生すると、みるみる芽が出て茎が伸び葉が伸びてゆく「動き」を見ることが出来る。「樹間」という作品からは、まるでそのような映像みたいな「動き」が感じられる。それは樹木が育ってゆく動きであるから、画面の下から上へと向かうという「方向性」をもっている。画面全体としては、ちょうど「C」の文字のように、画面右下から左下へ、左下から左上へ、そして左上から中央へと言うような大きな流れがある。しかし、その動きはそんなに単純ではない。画面に描かれた三本の樹は互いに干渉し合うし、幹の動きは枝によって複数の方向へ分岐し、それは葉によってさらに分岐する。言葉で書くと、幹から枝へ、枝から葉へと、順を追って(階層的に)動きが分岐するように聞こえるが、「目」は、幹の動きも、枝の分岐も、葉も分岐も、全て同等なものとして捉えるから、動きはもっと複雑なものになる。コマ落としで植物の生育を見せる映像だと、植物は時間に従って順を追って伸びてゆくけど、描かれた絵は静止しているので、その動きはその都度視線が注がれるたびに異なるし、視線が注がれた場所によってもことなる。動きが複数に分岐する分岐点で、そのどれを選ぶかは、その都度の視線のあり様に任される(事前に決定されているわけではない)。そして、目は、たまたま選択したある一つの分岐(動き)だけでなく、そこで選択しなかった(しかし、場合によっては選択したかも知れない)動きをどこかで意識しているから、目が追う一つの動きは、追わなかった別の動きをも意識し、そのなかに含むことになる。そのようにして、視線は複数の動きを同時に捉え、ここで捉えられる動き複数性こそが、空間の広がりをつくりだす。そうは言っても、この絵はあくまで樹木の育成を感じさせるものだから、この動きは全くのランダムということにはならなくて、一定の方向性を保持してはいる。つまり、植物が生育するという動き、その力、そのうごめきを力強く捉えつつも、視線は決して単調に下から上へという動きだけを見るのではなく、もっと複雑で入り組んだ動きへと分岐してゆき、その複雑さを充分に味わい、楽しむことが出来る。
●「樹間」の、全体として「C」字のように動くダイナミックな流れを支えているのは、おそらく、画面中央上部に描かれた、一枚だけある、葉の色と背景の色とが反転している「白い葉」なのではないかと思う。例えば、「樹間」と同様に、樹木が伸びてゆく動きを捉えながらも、「萌樹」という作品が、「樹間」ほどの動きの複雑さを獲得出来ていないのは、フレームサイズの関係もあるが、この「白い葉」のような、構造的な支点が存在しないからだろう。でも、堀さんとしては本当は、このような「分かり易い構造的支点」などなしで、複雑な動きを実現したいのだと思う。
●今までの堀さんの絵は、魅力的なストロークの伸びやかさによって成り立っていた部分が多くあると思う。今回展示されている作品でも「畑地」などは、そのようなものだろう。しかし、樹木を描いた作品では、ストロークは細かく刻まれ、ストロークというよりもタッチというべきものになってきている。このストローク(ともタッチとも言えるもの)の細かさによって、樹木を描くことが可能になり、複雑に分岐する動きを(そして空間を)作り出すことが可能になっているのだと思うが、しかしそれは一面で、堀さんの絵の大きな魅力を捨てることでもあり、画面が(絵の具の着きが)不用意にボソボソとしてしまうという危険と隣り合わせのことでもある。以前の樹木を描いた作品では、まず最初にそのボソボソ感の方が目についてしまっていたのだが、今回の「樹間」や「光合成」などは、それがギリギリで上手くいっていて、絵の具の着きのボソボソ感が気になるよりも、動きの複雑さの面白さの方が勝っているように思う。「光合成」では、そのボソボソ感こそを、魅力的なものにするところまでいきつつあるような感じさえ受ける。
●堀由樹子・展「あたたかな土」は、代々木のギャラリー千空間で、5月16日まで。水、木は休廊。