後期、相米慎二について

相米慎二『風花』をDVDで観た。相米はぼくにとって青春の特権的な映画作家で(中学一年の時に『翔んだカップル』が、二年の時に『セーラー服と機関銃』が、三年の時に『ションベンライダー』が公開された)、徹底的にハマり込んだのだが、そのことで返って、晩年の相米の作品とは不幸な関係しか持てなかった。大学の卒業式の日に『夏の庭』を観た時の落胆した嫌な気持ちは、今でも忘れられない。ある時期まで(『雪の断章・情熱』くらいまで)の相米作品は、最低でも二十回以上は観ているはずなのだが、最後の三本(『夏の庭』『あ、春』『風花』)は、どれも一回ずつしか観ていないし、『あ、春』と『風花』は公開時に観ているのではなく、かなり後になってからビデオで(義理であるかのように)観ただけだ。しかし今回、『風花』を観てみて、若い頃とは別のやり方で、改めて相米作品と新たな関係をもつことが出来るかもしれないと思った。
●前半を観ている時は、とても丁寧につくられた映画だという印象だった。ファーストショットは、まさに相米でなければ撮れないような素晴らしいショットなのだが、それ以降は、いわゆる作家としての「相米印」は抑制して、あくまで俳優=登場人物を丁寧に追ってゆくようなつくりになっている。(相米的な「技」は随所にみられるが、それは人物やドラマを際立たせるために使用され、それ自体が突出することはない。)回想シーンが、都合が良すぎるというか、説明的すぎてテンションが落ちてしまうという傾向はあるけど、成熟した映画作家のまなざしがしっかりと感じられる秀作といった感じだった。
●映画は中盤を過ぎ、浅野忠信小泉今日子柄本明の経営する山小屋にたどり着く。そこは常連の山男たちだけが利用するような閉鎖的で内輪ノリな雰囲気の宿で、食事時に経営者の柄本がギターで春歌(だと思う)を歌い出したりするような宿で、浅野はその雰囲気が居たたまれなくて席を立つが、小泉はその場に残る。浅野が風呂に入っているシーンなどをはさみ、食堂では柄本の素人芝居(座頭市)がはじまっている。がさつな男たちに最初は嫌な顔をしていた小泉も、いつの間にかその空気に溶け込んでいる。柄本に誘われて、酔って、はしゃぎつつ舞台に登る小泉に、天井から、紙吹雪による雪がパラパラと落ちてきて、小泉はそれを一人で受けとめる。このシーンを観た瞬間、ああそうか、これが相米なのだ、相米はこの遺作でも全くかわってはいなかったのだ、と感じて、あつい感情がグッとこみ上げてきた。
●その瞬間、『雪の断章・情熱』のファーストシーンの、あの超強引な長回しと、この『風花』という映画全体がふいにシンクロした。ぼくはずっと、『雪の断章・情熱』という映画は、相米にとっては、原作にもお話にも全く興味は持てないが、その分、強引なまでに大胆な形式的実験を押し進めることが可能で、それで「映画」として成り立たせようとする野心をもった(『セーラー服と機関銃』をさらに奇形化させたような)作品だと思っていた。それにしては、全編を覆う(北国的な)陰鬱で感傷的な調子が、あまりにも濃厚で重すぎるとは思っていたのだが。しかし実は、お仕着せの企画もののようにみえて、『雪の断章・情熱』こそが、最も相米的な感情というか、相米個人の幻想のあり様を色濃く反映している映画ではないのか、と(『風花』の後半部分を観て)思い直した。(それは必ずしも最高傑作ということではない。)
●雪の積もった広がり、流れる川に足を浸すこと、雪に限らず、桜や紙吹雪がチラチラと舞い落ちてくる下にいること。そして、屋外でのそのような環境が、人工的な舞台の上でも反復され、再現されること。これらの装置は勿論、映画的な手法として珍しくはない(というよりありふれている)。しかし、これらの装置が相米の映画にあらわれる時、ある重たく感傷的な感情が常に纏い着いてくることは、ありふれているとは言えない。北海道という場所が、(まさに『雪の断章・情熱』以降の後期の相米にとって)特権的な舞台となることも、そのことと関係するようにみえる。(相米は確か東北の出身であり、北海道の人というわけではないので、おそらく『雪の断章・情熱』で、自らの「幻想」と重なり合う場所として、北海道という舞台を発見したのではないだろうか。)『風花』の小泉の境遇は、確かに幸福とは言えないだろうが、しかし(回想によって「説明的」に説明される)物語によってでは、何故あそこまで「死」に取り付かれているのかは説明できない。小泉は、絶望的な状況(あるいは人生そのものへの疲労)から死を選ばざるを得ないというよりも、もっと観念的に「死」にロマンチックに惹きつけられていると言うべきだろう。そして、そのような感傷を説得力をもって表現しているのは、(物語の説明的な説明ではなく)、雪の積もった北海道の風景であり、チラチラと雪が舞う光景が、舞台の上の紙吹雪と、屋外の「風花」とで、二回反復される、ということなのだと思う。(それは、冒頭の桜によっても準備されている。)がさつな男たちの猥雑な雰囲気のなかで、そこから遮断されたように、舞台の上でたった一人で紙吹雪を浴びる時、小泉の「死への傾倒」は決定的なものとして表現されるのだ。(このシーンがなければ、小泉が雪山へと向かうことは、あまりに唐突なことと感じられるだろう。)そしてその「死への傾倒」は、痛い程切ないのと同時に、信じがたい程の幸福感をも含む。(つまりそれが「感傷」であり、相米の映画の底に横たわる基本的な「感情」なのだと思う。)小泉が、猥雑なざわめきを遮断するようにして舞台に登って一人紙吹雪を浴びる時と、雪の平原で睡眠薬を飲んで横たわるシーンで、浅野と初めて会った夜の信じがたく幸福な時間が回想され、モンタージュされる時の二度、この映画に「絶対的相米的感情」とでも言うべきものがあらわれる。これは、この映画の前半部分を支配している、成熟した映画作家のまなざしとは、相容れないなにかであるように思う。(そしてそれは、初期から中期の相米の映画のそこかしこに溢れていたものだ。)