新宿駅の、東口から南口の方へと向かう歩道。朝、十時を少しまわった時刻。中年の男性が、手を握ってグーにして、通路の柱を規則的に殴り続けていた。その様子は、何かしらの感情を露にしているのではなく、まるで機械仕掛けのように、淡々と、リズムをとるように、規則的に、柱を殴る動作を延々と繰り返しているのだった。それは、握りこぶしを血だらけにするような強さではないが、コツ,コツ,コツ、という規則的に刻まれる音から、まったく痛くないということはないように思われた。
●その姿を見て、大学時代に動物園で見たサイを思い出した。まばらにしか客のいない平日の昼間の園内で、サイは、コンクリートの壁に、その重たそうな身体をぶつけることを何度も、淡々と繰り返していた。ドシン、ドシン、という音が、一定の間隔をあけて、ずっと聞こえつづけた。壁にも、サイの身体にも、特定の部分にあきらかにその行為のためと思われる「跡」が刻まれていた。ぼくはその行為の、まるで永遠に反復されつづけるかのようなとりとめのなさが恐ろしくて、サイがこの行為をつかの間でも止めるまで、あるいは、そのドシン、ドシン、と響くリズムに多少でも狂いが生じるまで、そのサイの前を離れられない感じになってしまった。
●ある行為なり、リズムなりが、固着してしまうことはとても恐ろしい。例えば、ある感情の乱れや高揚から、突飛な行動をしてしまうということは、ことの大きさの差はあれ、誰にでもあることだろうが、ある行為なりリズムなりが、感情や意識による媒介なしに、それ自身で固着し、機械的、反復的にあらわれるようになり、そしてさらに、このリズムの固着がまた、周囲のもののリズムさえも巻き込んで、固着化させてしまうような時、たとえそれが、毎朝起きたら顔を洗って歯を磨くというような常識的な習慣であったとしても、そこには何かヤバいものが宿ってしまうように思える。
●子供の頃、実家で、水道のパッキンのせいで、蛇口から水が止まらず、ずっと一定の勢いで水が流れつづけたことがあった。もう夜遅くで、業者に修理に来てもらうことも出来ず、仕方がないので明日の朝までそのまま、ということになったのだろうと思う。ぼくは、蛇口から流れつづける水がとても恐ろしかったことを憶えている。蛇口から流れつづける水が、永遠に止むことのない、とりとめのないなにかの存在を、突きつけてくるように思われたのだろう。