六月の展覧会のDMが出来上がる、そして『ソラニン』(浅野いにお)を読

●六月の展覧会のDMが出来上がる(画像http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/a-things.html)。吉祥寺まで行って、帰ってくる電車のなかで、『ソラニン』(1)(2)(浅野いにお)を読んだ。そんな、物語の都合で簡単に人を殺すなよ、と思う。これはもの凄く安易な構成で、この話を「死」と「回想」なしで成立させられなければ、作家としては駄目だと思うのだ。あと、この話の薄っぺらいところは「大人」がほとんど出てこない点にもある。学生から社会人へと移行してゆくような時期を描く時に、同世代の若者たちの関係だけで描こうとするのは無理があって、その道をかつて通ってきた人(そして実際に「社会」を構成している人)としての「大人」を(否定的な存在としてにしろ、肯定的な存在としてにしろ)それなりの説得力をもったキャラクターとして登場させられなければ、幅が出ない。何しろ、彼らの「行き先」は、そのような大人たちとの関係のなかにしかないのだから。(芽衣子が辞めた会社の上司とか、ほんとに紋切り型の「おっさん」の表象でしかない。唯一出てくるまともな大人がレコード会社のプロデューサーだけど、この人のキャラクターも弱い。種田の父親など、絵の次元でも顔が全然描けてないし。)同世代の若者たちの関係の描き方は丁寧だし面白い。アユ川といった魅力的な脇役を造形してもいる。大学のサークル内でのちょっとした世代の違いのズレのような感じもすごく良く出ている。でも、もっと大きな世代差のある人物をちゃんと描けないから、このマンガに出てくる「社会」のイメージに具体性がないし、それは紋切り型を一歩も出ない。だからこそ、主要な登場人物を一人殺して、その死の衝撃から立ち直ることと、自分たちの今置かれている現状から一歩踏み出すこととを(その感傷的な喪失感や無力感なども含め)「重ね合わせる」ことで、無理矢理この話を成立させなければならなくなるのだと思う。あと、絵について。この作家は紙の白の使い方があまり上手くなくて、画面に気持ちのよい「抜け」をつくることが出来ないので(描き込むところと抜くところとのバランスが単調なので)、かなり丁寧に描写されている風景が、いまひとつ生きていないように思える。とはいえ、この作家がまだ二十代半ばだということを考えれば、この作品はかなりたいしたものだとも思う。