引用二つ

●引用二つ。
《人が考えるよりもはるかに多くの言語がある。そして人間は、自分が望むよりもはるかに頻繁にみずからを暴露する。なんと多くのものが語ることだろう----しかし聴衆はいつもほとんど存在せず、それゆえに人間が告白のなかに自己を吐露するときには、いわば空虚のなかで無駄話をしているにすぎないのである。彼は、ちょうど太陽が光を浪費するように、みずからの「真理」を浪費する。----空虚が耳をもたないことは、やはり残念なことだろうか。》(ニーチェ、『ニーチェと悪循環』クロソウスキーより)
《 彼女のその闘いと、より深い愛の希求が、どのように帰結したかはこの作品(『バナナブレッドのプディング』)では明らかでない。<わたしには自信がある、わたしは誰にだってすんなりとけこめるのよ>という衣良が、野の草々や庭の薔薇と語るように、人々と語りあえることになったかどうかは、難しいところだろう。というのもその彼女の振舞いは、庭の薔薇のようでありながらけっして庭の薔薇そのものではなく、むしろ強い震えの豊かな言葉が、みずからと、さらにやがて来る他者をそこで待ちつづけ、そのことが暗黙の了解として多くの人々に、<それとなく>すでに知られていることがそこでは前提となるからである。そして少女まんがにおいては、男性には過酷なほどの英知が期待されつつ、同時に彼らは――現実がそうであるように――存在論的に(?)愚かなのが常なので、聞かれることを得なかった彼女の声は、まったくの草々と薔薇の声となって、現実には山奥の山荘で療養する発狂した『ダリアの帯』の黄菜(きいな)の発する、<うふふふふ☆うふふふ☆やだあ☆それはへんよ☆ふふふふふ>という、緩慢にたゆらぐ気流のような音となる。だがここで、人は衣良の立てた戦略の、もう一方の帰結を知らねばならない。衣良の歩む、それ自身を知りながら、いつか聞かれることを互いに待ちつづける道ゆきは、実はその最も近いものは、作品といわれるそれの振舞いである。作品は、耳をやがてそばだてられる情愛豊かな自然であり、反対に聞かれることの少なさは、作品を自然に返してしまう。衣良が求めた、人が知るかぎりで最後の種類の愛情とは、作品に向けて贈られるようなそれであり、あるいは衣良の慎しさとは、作品がもつ慎しさに似通っている。》(樫村晴香「嘘の力と力の嘘--大島弓子と、そのいくつかの政治学」)