『キューティー・ハニー』(庵野秀明)をDVDで観た

●『キューティー・ハニー』(庵野秀明)をDVDで観た。これは予想外に面白かった。庵野監督の「エヴァ」以降の作品は、『彼氏、彼女の事情』はまったく面白くなかったし、実写で撮った『ラブ&ポップ』は悲惨な出来と言っていいと思う(だから『式日』は観てない)ので、あまり期待していなかったのだが、オープニングから、主題歌がかかるまでの、とにかく編集のリズムとハッタリだけで畳み掛けるような展開に、まず驚かされた。(主題歌とともに示されるアニメーションもさすがに素晴らしい。)とにかくここまでで「掴まれ」てしまう。ぼくは佐藤江梨子ってどうも苦手で、テレビに出ているところを観ても、どうにもいたたまれなくなってしまう感じなのだけど、しょっぱな風呂に入りながら、「やっぱお風呂はいいにゃー、生きてるって感じがするもんにゃー」と、ほとんど『フリクリ』のハル子そっくりのアニメ口調で喋っていて、それが全く違和感がなくて、この冒頭で既に苦手感は消えてしまい、この役はこの人でしか成り立たないのだなあ、と思ったのだった。ハニーの役が佐藤江梨子でしか成り立たないのは、そのフィギィアのような人間離れしたルックスからだけでなく、その「いたたまれない感じ」まで含めての話(特に職場での描写など)で、キューティー・ハニーというキャラクターを成立させるために佐藤江梨子が抜擢されたのではなく、佐藤江梨子を撮りたいためにハニーのキャラクターが造形されたのではないか、とさえ思うほどなのだった(この冒頭だけ観た時点で、この映画がたんに「なつかしのアニメ」の再利用という枠を超えたものだと感じた)。しかし、いかに佐藤江梨子がハマッているにしても、ハニーが映画の中心にいつづけるだけではキツいのだが、この映画が面白いのは、もう一方に市川実日子がいるからなのだった。佐藤江梨子がその「いたたまれなさ」まで含めて、ほとんどそのままの感じであっけらかんと存在しているのに対して(それにしても、こんなにアニメ口調というか声優口調が不自然でない人がいるのかということに、1シーンごとに驚くのだが)、市川実日子は、技術的に難しいキャラクターを見事に作り込んでいて、この二人のバラバラな取り合わせがとても面白いのだった。例えば市川実日子は(たんにキャラクターとしてハニーとの対比的存在としているだけではなくて)、映画のリズムをつくるペースメーカーのような存在で、かなりの早口で(説明的な台詞を「説明的」であると感じさせないためにも)喋ることが要求されているのだが、早口の台詞を、早口と感じさせないように、しかも正確に聞き取りやすい口調で見事にこなしつつ、そんな難しいことをやっているという気配をまったく感じさせていない、というだけで素晴らしいのだけど、そのように技術的に困難なハードルをクリアした上で、女優としての自らの魅力も十二分に発揮している。(市川実日子佐藤江梨子とは違って、オーソドックスに「女優」として素晴らしいのだった。庵野監督の演出は、映画的なアクションというよりも、アニメ的な「止め絵」を多様した感じで、アップも、カット数もかなり多いのだが、その「止め絵」のポーズや表情が決まっているだけでなく、「止め絵」としての「決め」からはみ出すような、豊かなニュアンスをそこに付け加えてもいるのだった。)この人の存在が(というか、二人のカップリングが)、この映画をたんに「アニメを実写でやった」というだけのものを超えた、何とも奇妙で不思議な作品としての「幅」をつくっていると思う。ただ、佐藤江梨子は、何もしないでただ立っている立ち姿がかっこ悪くて、それが難点なのだけど。しかし、その「決まっていない」ところこそが良いのかも知れない。(将棋の駒を置いてゆくようにキャラクターとして「配置」されているこの映画のキャスティングは皆素晴らしい。キャラクターがキャラクターとしての「設定」だけで成り立つのではなくて、その俳優が演じることによってはじめて成り立つようなものとして構想されている。ただ唯一弱いのが及川光博だと思うけど、これはミッチーが悪いというよりも、最後に登場する敵方の最も強力にキャラであるはずのこのキャラクターの設定がもともと弱いのだ。全体的にみてもこの映画の弱点は終盤の弱さで、それはどの庵野作品にも共通していることのように思える。とにかく、クライマックスの盛り上がりをつくろうとすると、途端に陳腐になってしまうのだった。)
●ぼくが『キューティー・ハニー』のオリジナルを観ていたのは本当に子供の頃なので、あまり細かくは憶えていないのだけど、如月ハニーは、70年代に多く登場した「強い女性」のキャラクターで、例えば『ルパン三世』の峰不二子や、『バイオニック・ジェミー』に通じるようなヒーローだったはずなのだが、庵野版では、佐藤江梨子がハニーを演じていることから分かるように、ハニーは「駄目な奴」キャラなのだった。しかしこのキャラクターは、現代的な天然な「戦闘美少女」とも違っているように思う。戦闘美少女には戦う理由(外傷)がなく、戦いは大きな状況に否応無く巻き込まれてのことで、ハードな戦いは彼女たちにとって理不尽な受苦であり、それが彼女たちの弱々しさや純粋さを逆に際立てるような効果となっていることが多いように思う。(戦闘美少女とはちょっと違うけど、『ほしのこえ』なんかが典型的だろう。)対してハニーには、父親の死(そして自分の死)という明確な戦う理由(外傷)が存在している。(この辺が70年代的だと思う。)確かにハニーは天然であり、この物語は、天然のキャラ(ハニー=佐藤)が、ガードの堅いキャラ(なっちゃん=市川)の心を開かせる、という典型的な(「ハイジ」みたいな)展開をもつが(だからキャラクターという次元では、二人の取り合わせは紋切り型のもので、この二人の取り合わせの面白さは、俳優たちの力によると思われる)、ハニーは天然ではあっても(外傷=憎しみを持つので)純粋ではない。外傷をもつということは(それがいかに陳腐なものであれ)「内面=隠されたもの」をもつということで、だからハニーはたんに見られる身体であり、天然という属性があるというだけでは収まらない過剰としての「主体」をもつのだ。(フィギュアのような身体をことさら強調し、アニメのように喋るこのキャラクターは明らかに「見られる」ためのものとして造形されているにも関わらず、そこにすんなりと収まらない。)このような、外傷を持つ天然というキャラクターが、佐藤=ハニーの「いたたまれなさ」そして「場違いな感じ」を産み出しているのではないだろうか。この映画の佐藤江梨子の「場違い」ぶりは際立っていて、それはただ、裸に近い格好で表を走ったりするから場違いなのではなく、みんなと同じ制服を着て職場にいても、ただ立っているだけで見事に「場違い」感が滲み出ていて、観ていて本当に「いたたまれな」くて素晴らしい。
●この映画は、いわゆる「リュミエール以来の百年の歴史をもつ映画」とはまったく別の何かなのだが、たんに「アニメのノリを実写でやった」というものとも違うし、ハリウッド製の、「CG技術によってコミックの世界の映画化を実現した」というようなものとも違っている。個々の要素をみてみれば、この映画には何も、新しいもの、驚くべきものはないといっていいと思うのだが、それぞれの要素の何とも微妙な配合の具合によって、あまり他で見たことの無い、変な、そして魅力的なものが出来上がっているように思う。日本のアニメーション表現が洗練させてきた、圧縮と切断によるリズムの構成があり、ハリウッドのCG物や、ジャパニーズ・ホラーからもってきた様々な技術やアイディアがあり、そして、日本映画の、マンガを映画化した「原作もの」のもつチープな雰囲気も受け継がれているのだが、その配合のされ方に(例えば佐藤江梨子の使い方などにみられるような)庵野秀明の作品としか言えないような「作家性」の印が刻まれている。CGによる、アニメのノリと実写のハイブリッドな配合のような、ポストモダンなものを狙っているだけの(CMやMTV出身の、よくいるような)監督だったら、そもそも佐藤江梨子市川実日子カップリングを構想し得ないと思う。庵野秀明が「作家」だと言うのは、この映画が、はじめに『キューティー・ハニー』という企画(あるいはキャラクター)という外枠があって、それに適当に当てはめるようにして中味が決定されているのではなく、はじめに(佐藤江梨子によって体現されているような)「いたたまれなさ」というような世界との接触の感触があり、それが『キューティー・ハニー』という企画へと結びつき、作品へと発展していったようにみえる、ということだ。