「文學界」の曾野綾子

●ある人から、今月の「文學界」の曾野綾子は凄い、という話を聞かされていた。何が凄いといって、最初の1ページ読むだけで、凄く嫌な気持ちにさせられる、と。たった1ページでここまで人を嫌な気持ちにさせられる曾野綾子は相当なものだ、ということだった。その言葉が頭の隅に残っていて、本屋で「文學界」を見つけて、曾野綾子の掌編の最初の1ページだけ立ち読みしてみた。たしかに酷かった。半端ではなく酷かった。(余談だが、その本屋とは新宿の紀伊国屋書店で、その後、面白そうな本を何冊か見つけてレジに並んでいたら、そうとう年配の男性が、予約しておいたらしい「本当の日本精神が世界を救う」というようなタイトルの本を受け取っていた。何かとても絶望的な気持ちになった。)
曾野綾子の徹底して酷い文章を読んでいて思い出したのは、村上春樹吉田修一のことだった。いや、いくら何でも村上春樹はこんなに酷い文章を書くことは決してないだろう。(「こんにゃく」なんていう間抜けなオチは、村上春樹の最も嫌うものかもしれない。)しかしそれにしても、村上春樹の嫌なところを何倍にも凝縮したのが、曾野綾子の文章であるように感じられた。曾野綾子の文章は、一見、何か問題を提示し、それについて思考するようなポーズをみせながらも、それはポーズだけで、巧妙に思考することを回避し、そこで思考を停止させてしまうような「スタイル」を示していた。そして、そのようなスタイルの最も優れた使い手が村上春樹であり、吉田修一であるとぼくは思う。曾野綾子の文章はあまりに酷いので、誰が読んでもすぐに「酷い」と分かる分だけ、罪がないと言えるかもしれない。