『ショートカット』(柴崎友香)再読

●昨日読んだ「その街の今は」(柴崎友香)が面白かったので、『ショートカット』を読み返してみた。以前に読んだ時は、表題作の「ショートカット」をあまり好きとは思えなかったのだが、今回は読むのが二度目だということと、収録順ではなく、最後の「ポラロイド」から逆に、「パーティー」「やさしさ」と読んでいって、最後に、一番頭の「ショートカット」にたどり着いたということもあって、この表題作が、柴崎氏の小説の特徴が凝縮されてあらわれているものだと読めた。(とはいっても、小説としてそんなにいい作品だとはやはり思えないけど。)この本は、「なかちゃん」という狂言回しのような登場人物によってゆるやかに関係づけられた連作集とも言える体裁になっているけど、ことさら「連作」としての企みが隠されているわけではないし、そういうことはどうでもいいのが柴崎氏の小説のように思える。
●繰り返しになるが、この短編集に納められている作品は、柴崎氏の他の作品に比べるとあまり上手くはいってはいないように思える。しかし、柴崎氏の小説の「秘密」というのか、そのコアの部分が素直に出ているように思えた。
●まず、柴崎氏の小説における描写の生々しい感じは、おそらく次に引用するような感覚と関係があるだろう。
《わたしは東京の場所の関係がまだ詳しくはつかめていなくて、何度か来るたびに用事があるところの周辺をカメラを持って歩いているくらいだったけど、都会の真ん中でも少し道を入れば新旧大小いろんな一軒家がある。こんなところにこんな家が、という、そのときにその場所に行ってみて初めてわかる小さな驚きみたいなものがわたしは好きで、そのときにその場所にあるもの、建物とか植物とか人とか天気とか、それから驚いたり楽しかったりする感覚も含めて、まるごと全部写真に撮りたいと思っているけれど、実際に写真を撮る瞬間はそんなにたくさんのことを考えているわけではなく、単純に色や形の組み合わせが好きな角度を見つけるとシャッターを押す。》(「ポラロイド」)
柴崎氏の描写は、《そのときにその場所に行ってみて初めてわかる小さな驚きみたいなもの》によって発動し、活気づけられる。そしてそれは、《今日の夕方まで、夜にここでこうしている自分を想像してなかったから》(「ポラロイド」)という風な「小さな逸脱」という感覚をも生じさせる。柴崎氏の描写は、舞台設定や世界観を表現するものではなく、その時、その場所にいることの驚きと新鮮さに関わり、それを確認するためにも、何度も繰り返し呼び出される。柴崎氏の小説には、何度も似たような場所や場面が描かれる(例えば飲食店やカフェなど)が、その同じような場所や場面は、その都度、その時、その場所に自分がいることの驚きや新鮮さを何度もたちあげる。
●しかし、柴崎氏による「小さな驚き」の発見は、それ自身で自己完結したものではなく、それを誰かと一緒に見たり、その驚きを誰かへ報告したりして、「共有」することが望まれている。世界に対する驚きの発見が先にあるのか、それともそれを「共有したい」という欲望が先にあってそれが発見を促すのかはさだかではなく、両者は常に結びついている。柴崎氏の投場人物はだから、いつも恋愛に関わり、誰かしら「気になる人」の存在によって彩られる。
《今、自分が経験していることを、見ていることの全部を、もう会わない彼に言いたかった。電話したかった。このまま、船が走って到着するのは彼のところだと思いたかった。だけど、実際に彼の住んでいるところは東で、船は西へとひたすら進み続けているので遠ざかってゆく一方だった。海に投げ込まれてしまったり、事故で船がひっくり返って溺れたりしたら、もう彼に会えなくなるな、とぼんやりと思ってみた。ほんとうは溺れても溺れなくても、彼と会うことも話すこともできないので、溺れることよりそのほうが悲しいかもしれなかった。》(「パーティー」)
しかし、上記の引用のように、柴崎氏の小説の登場人物は恋愛の最中にいるのではない。多くの場合、以前の恋愛の未練を引きづりつつも、新たな「気になる人」の存在が浮上していて、その宙づり状態にある。上記の引用部分だけ読むと、「パーティー」という小説が恋愛の終わった後の感傷的な気分に満たされた小説のようにみえてしまうが、しかし実際は、主人公はたまにふっと、このような感情に襲われるのであって、小説全体の色調はそのようなものではなく、もっと淡々としている。柴崎氏の小説は、なにかしらのドラマチックな展開があるわけではないので、恋人と上手くいっている状態の幸福感が描かれても不都合はないはずなのに、それは微妙に避けられている。そこから考えると、柴崎氏の小説を活気づける(というか、それが書かれるモチベーションそのものである思える)「小さな驚き」は、誰かと共有したいのに、共有すべき具体的な相手がいない、という時にこそ最も活性化されるという傾向があるのではないだろうか。
●だが、そもそも、柴崎氏の登場人物は、本当に恋愛の相手と「小さな驚き」を共有したいと思っているのだろうか。というか、「小さな驚き」のふさわしい届け先と、自らの恋愛における「好みの相手」とが必ずしも一致しない、という事態が、柴崎氏の小説でしばしば描かれているのではないだろうか。(柴崎氏の登場人物において、「好み」というのは凄く強い拘束としてあり、それは自覚的にどうこうすることが出来ない。)一致しないということが柴崎氏の登場人物には無意識のうちに自覚されているからこそ、宙づり状態の時期こそが選ばれるのではないだろうか。(前の人への未練の気持ちや、新たな「気になる人」へのあこがれの気持ちが、現在からのズレとして、届け先を空欄とするので、「一致しない」という現実を忘れさせる。)
●おそらくここで、「なかちゃん」のような狂言回し的な人物の重要性が浮上する。柴崎氏の登場人物は、多くの場合、このような狂言回し的(恋愛の対象にはならないが、とても「使い勝手の良い」)人物への強い依存がみられる。柴崎氏の小説では、世界のなかの「小さな発見」の届け先は決して超越的(普遍的)な何かではなく、あくまで実在する「誰か」であり、その「誰か」の存在は恋愛(柴崎氏の登場人物にとってそれは動物的な次元での「好み」によって決定される)によってもたらされる強い感情によって支えられるのだけど、しかし実は、その届け先は恋愛による強い、しかし不安定な感情や関係によるものではなく、もっと安定した感情や関係である相手こそが望ましいだろう。(しかし、安定した関係では、それを支える感情の「強さ」が足りない。)このような構造的な矛盾を、作品のなかで弾力をもって吸収するのが「なかちゃん」のような人物で、だからこそ、このような人物こそが最も魅力的に描かれる。実際、「ショートカット」と「ポラロイド」において、(それぞれ異なる)主人公は、作中の最も重要な瞬間に「なかちゃん」と話をしている。(そして、どちらも「電話」で、ということも重要だろう。)「ショートカット」でも「ポラロイド」でも、主人公が最も「気になって」いる人物はほとんど作中には不在のようなもので、その不在の人物を代替するかのように充実した描写が満たしているのだけど、「なかちゃん」はその両者(不在の人物と充実した描写)を結びつけているような人物だと言える。前述したが、このような矛盾に柴崎氏の作中人物は無意識のうちに気づいていて、だからこそ、(気になる人である)森川を追って原宿へワープした「ショートカット」の主人公は、なかちゃんと電話で話した後、森川を探すのではなく、友人たちを大阪から呼び寄せようとする。(だから『ショートカット』以降の小説では、「小さな驚き」と「気になる人(その届け先)」そして「狂言回し的な人物」の関係はもっと複雑になり、一筋縄ではいかなくなる。特に「その街の今は」では、古い写真をあつめる主人公は、過去に生きた、誰とも知れない誰かによって発せられた「小さな驚き」が届けられる(それを受け取る)宛先でもあるようになっている。だから主人公の得た「小さな驚き」の届け先も、かならずしも「気になる人」へと収斂されないかもしれない。)
●このようなまとめ方は乱暴であり、図式的なものに過ぎないが、このような乱暴なまとめを許してしまうという意味で、やはり『ショートカット』は小説としてそれほど良いものとは言えないだろうと思う。それでも、「ポラロイド」や「やさしさ」はとても好きな小説ではあるけど。(例えば「その街の今は」は、このような図式からもっと大きくはみ出す動きがあるし、はみ出すものの重要性も大きいと思う。)あと、「ショートカット」にでてくる「ワープ」というのは、柴崎氏の小説の重要なテーマのうちの二つ、「空間の移動」と「酔っぱらうこと(眠ること)=意識が薄れ、途切れること」が重なり合わさせれることで生まれた形象だと思うけど、繰り返すけど、作品としてそれほど上手くはいっていないように思う。