引用、メモ。自己言及とフレーム問題。郡司ペギオ-幸夫『生命理論1/

●引用、メモ。自己言及とフレーム問題。郡司ペギオ-幸夫『生命理論1/生成する生命』より
《嘘つき文・自己言及は、両義的指し示しを根拠とするが、全体が何であるか、確定できることを前提としている。ところがまさにフレーム問題は、全体の指し示しが不可能であると主張し、自己言及成立の前提を解体し、自己言及自体を無効にしているのだ。逆に、フレーム問題は自己言及によって無効にされる。フレーム問題は常に、成立条件の確定に対する無限退行として提示される。したがって確定する認識主体を前提としている。ところが自己言及によって、認識主体の確実性は解体されている。したがってフレーム問題は問題として気づかれもしない。自己言及とフレーム問題は、こうして互いを無効にし、ここに意思決定が実現される。》
《無効と否定とは根本的に異なる操作である。自己言及とフレーム問題とが互いを無効にするとは、互いに否定することを意味するものではない。フレーム問題は、自己言及の前提である指し示しを否定しない。同様に自己言及は、フレーム問題の指摘を不可能だと断ずるものではない。そうではなく、無効にするとは、自己言及の成立を成立条件として捉えず、成立を「全体」の確定的指し示しに根拠付けないことを意味する。全体の指し示しが可能であるには、世界全体を見渡し見知っていることが要請される。例えば「この文は偽である」の外側が空虚な無であるなら、文の全体は自明となる。しかし現実には文の外部にも世界は広がり、そうであるにも拘らず文の全体を自明なものとして決定可能である。そしてまた、根拠付けられないがゆえに、決定不能にも同時に開かれている。私はこの種の自明性を、世界を見渡すことで根拠付ける事をせず、「根拠付けの試みからは不可能性が帰結されるにも拘らず実行される過程」として、解読する態度を採る。すなわち、自己言及に接続されるフレーム問題とは、世界内全体の確定を実現するがゆえに、世界内全体の解体さえ共立させる世界性なのである。(略)或る形式を無効にするとは、形式の否定ではなく、形式に隠され内在した実在論的想定を否定することである。》