引用,メモ。ドゥルーズ=ガタリ「被知覚態、変様態、そして概念」

●引用,メモ。ドゥルーズ=ガタリ「被知覚態、変様態、そして概念」(『哲学とは何か』)より。
《小説はしばしば被知覚態(ペルセプト)に達している。たとえばハーディにおける、荒野の知覚ではなく、被知覚態としての荒野。メルヴィルの海洋の被知覚態。ヴァージニア・ウルフにおける都市の被知覚態、あるいは鏡の被知覚態。風景が見るのだ。(略)被知覚態、それは、人間の不在における、人間以前の風景である。しかし風景は、前提される〈登場人物の知覚〉から独立していず、またそれを介して、作者の知覚と想起から独立していないのだから、以上のすべてのケースにおいて、なぜそのように言いきってかまわないのだろうか。そして都市は、人間なしにかつ人間以前に、どのようにして存在しうるのだろうか。また鏡は、その鏡に映る老女がいなければ、たとえ彼女が鏡のなかの自分をみつめなくても、どのようにして存在しうるのだろうか。それは、(注釈されることの多い)セザンヌの謎である---「不在の、しかしその風景のなかではまったき人間」。登場人物が存在することができ、作者が登場人物を創造することができるのは、登場人物は風景のなかで知覚せずに、風景のなかに移ってしまい、それ自身が感覚合成態の一部に成っている、ということだけを理由としている。海の知覚を有しているのはもちろんエイハブであるが、しかし彼がその知覚を有しているのは、かれがモービー・ディックとの関係のなかに移ってしまい、この関係が彼をして〈鯨への--生成〉たらしめ、こうして、もはや人称を必要としないひとつの〈諸感覚の合成態〉つまり《海洋》を形成する、という理由だけにもとづいている。都市を知覚するのはダロウェイ夫人であるが、その理由は、彼女が、「すべての事物を通過するひとつのナイフ」として、都市のなかに移ってしまい、彼女自身は知覚されないものに生成するということにある。(都市も含めて)被知覚態が自然の非人間的な風景であるとすれば、変様態(アフェクト)はまさしく、人間の非人間的な[人間ではないものへの]生成である。「過ぎ去る過去の一分間が存在する」とき、ひとはその一分間を、「その一分間へ生成する」ことなしに保存することはないだろう、とセザンヌは語っている。ひとは世界内に存在するのではない、ひとは世界とともに生成する、ひとは世界を観照しながら生成する。》
《たとえば[プルーストが描く]シャルリュス男爵と[そのモデルと言われている]モンテスキューはとても似ている。しかし、モンテスキューとシャリュリス男爵の間には、類似点を数えあげたところで、吠える動物としての犬と天の犬座のあいだにある関係くらいしかない。(略)エイハブは[モービー・ディックへの生成において]モービー・ディックを模倣しているのではなく、ペンテジレーアは[雌犬への生成において]雌犬を「演じる」のではない。そうした生成は、模倣でも、体験された共感でもなく、想像上の同一化でさえもない。そうした生成は類似に属してはいないのである。たとえそこに、いささかの類似が存在するにしてもである。(略)ドレ・ドーテルは、〈木に生成する〉、あるいは〈シオンに生成する〉といった、異様な〈植物への--生成〉のなかに、自分の人物たちを置くすべを知っていた。彼が言うには、それは、一方が他方に変貌するということではなく、一方から他方へ何かが移り行くということである。この何かを明示するためには、それは感覚であると言うよりほかに、どうにも明示のしようがない。それは、ひとつの不確定のゾーン、不可識別ゾーンなのである。あたかも、或るいくつかの物、或るいくつかの獣と人物(エイハブとモービー・ディック、ペンテジレーアと雌犬)が、それらの自然的分化の直前にあるあの点に、それぞれのケースで、けれども限りなく到達していたかのような事態である。それが、ひとつの変様態と呼ばれるものである。(略)人間の形態と動物の形態との類似を示し、それらの変形をわたしたちに目撃させるようなデッサン画家がいるが、絵画が必要としているのは、そうした画家の技巧ではない。必要なのは、反対に、形態[図]を崩潰させることができる背景[地]の力(ピュイサンス)である。すなわち、もはやどれが動物でどれが人間なのかがわからなくなるあのゾーンの存在を認めさせることのできる背景の力である。》