『メゾン・ド・ヒミコ』(犬童一心)をDVDで

●『メゾン・ド・ヒミコ』(犬童一心)をDVDで。柴咲コウの堂々とした不細工っぷりと、オダギリジョーの奇形的なまでの美しさの対比によって成り立っているような映画だった。こういう話はしばしば、最初はブスッとしていた女の子が次第に心を開いて「かわいく」なってゆくという展開になりがちだけど、この映画の柴咲コウは最後まで一貫してブスッとしているところが面白い。『ジョゼと虎と魚たち』を観た時も思ったのだけど、犬童監督の作品は丁寧につくられてはいても「映画」として際立ったところがまったくと言っていいほどないのだが、しかしかえってそれによってメルヘンとしての「かわいいお話」をあくまで「お話」として嫌みなく成立させることが出来ているように思う。『メゾン・ド・ヒミコ』は、おそらく『ジョゼと虎と魚たち』がある程度高い評価を受けたために予算やスケジュールなどの点で多少の余裕ができたと思われ、その余裕が画面を確かに豊かにしているとはいえ、だからといって犬童監督の演出が急に冴えたものになったりはしていない(クラブのシーンとか、もうちょっと何とかならないのか、と思った)。
身障者やゲイをネタにしてメルヘンをつくるっていうのはどうだろうか、というツッコミもあるだろう。メルヘンとして(ある種の)別世界をつくるために、(あくまでマジョリティーから見た)マイノリティーへの視線、差別と言っては言い方がキツすぎるかもしれないけど、差異のようなものを確かに利用していると思うのだけど、それでもメルヘンという枠内で、犬童監督はギリギリ下品にならないような配慮を充分にしているようには思われる。この映画での「ゲイたちのための老人ホーム」というのは、丁寧に描かれてはいてもメルヘンを実現するための別世界としての「舞台装置」を超えるものではない。(ゲイの老人たちは、「白雪姫」の七人の小人のような存在だろう。)死に瀕したゲイの父親とその娘との関係は、それを主題として扱える程には充分に描かれているとは思えない。(あるいは、全身が麻痺してしまったルビーちゃんをホームとしてどうするかという問題は、途中で投げ出されたまま、いきなりその帰結だけが示されるし、ホームのパトロンが逮捕されてしまって資金ぐりをどうしようかという問題も、宙に浮いたままたち消えになってしまう。近所の悪ガキとホームとの関係も、あまりに美しく調停される。)
だから基本的にこの映画は、主人公の女の子が(アリスが迷い込むワンダーランドのような)「不思議な世界」に迷い込んで、オダギリジョーという非現実的な王子様(あんな、透けるようなヒラヒラの白いシャツと白いパンツ姿が似合う俳優なんて、日本にはオダギリジョーしかいないと思う)と出会う、というメルヘンであろう。(繰り返すが、しかしその範囲内では、とても丁寧にきちんと描かれているとは思う。)面白いのは、主人公が不思議の国へ行ったきりになるのではなく、現実の世界での事務職もつづけていることで、その、あちらとこちらとの行き来による揺れがあり、実際、柴咲コウは、あちらの世界でゲイたちに囲まれていることで妙にムラムラしてしまって、こちらの世界で会社の上司と突発的に寝てしまったりする。また、この会社の上司である西島秀俊がとても良くて、女にだらしなくて仕事もあまり出来そうもない軽薄な二代目のボンボンでありながら、どこかひょうひょうとした憎めない感じのキャラクターに凄くハマっていて、この映画でもっともエロくてドキドキしたシーンは、オダギリジョーが、軽い調子で西島秀俊を口説こうとしていて、西島がまんざらでもない感じでそれを受けているシーンだったりする。おそらくこの映画の魅力の中心は、オダギリジョー西島秀俊柴咲コウによる、微妙な三角関係にあると思う。(柴咲とオダギリは惹かれ合っているのだが、ゲイであるオダギリは柴咲に欲望を感じず、柴咲は、その欲望を西島で代替する。オダギリは性的には西島に惹かれているのだが、西島が柴咲と関係出来ることを嫉妬しつつ、西島とは普通に飲みにいったりしているらしい。一度離ればなれになった柴咲とオダギリはラストで再会し、めでたしめでたしという感じになるのだが、実は「性の不一致」という問題はなにも解決していない。)ここで、西島のキャラクターが魅力的ではなく、たんに軽薄な二代目に過ぎなかったら、この関係の微妙さは出なかっただろうと思う。(どうでもいいことだけど、柴咲コウは全くコスプレの似合わない人で、どんな格好をしてみても「柴咲コウ」という存在の方が濃く出てしまうのだった。あと、乙女キャラの山崎さんという登場人物が出て来るのだけど、その人が出るたびに、リリー・フランキーの顔を思い出してしまった。)