●書きあぐねていた原稿をようやく書き始める。文章は、書く内容がだいたい頭のなかにあっても、それが書けそうな書き出しがみつからないと、なかなか書けなくて、逆に、あまり大した考えがなくても、そこから発展しそうな書き出しが見つかれば、とりあえずは書き出すことが出来る(当たり前か)。で、ようやく書き出しが見つかったのだった。以下、その原稿の書き出し部分をちょっとだけ引用してしまう。
《似顔絵やモノマネによって問題になるのは、「似ている」という感覚をつくりだすことであって、オリジナルにどこまで近づけるかということではないだろう。モノマネ芸人は、自らの声を使い、それに仕草や言い回しを付け加えることで「似ている」という感覚を構成する。本人とまったく同じ声、まったく同じ言葉を発したとしても、それではまったく面白くはない。「似ている」というのは「違う」ということを前提にしてはじめて成立する感覚だ。違うからこそ、本人よりも本人らしい声、本人よりも本人らしい喋り方、という感じ方が生じる。面白いモノマネは、それを観る人にしばしば、そのモノマネ以前には気づかれなかった本人の特徴的な癖を意識化させる。その意外な驚きがまた「面白さ」にも繋がるだろう。つまり、新たなモノマネは(対象を模倣するのではなく)、「新たな類似」を創造する。(モノマネのモノマネは、その「新たなもの」が欠けているから、どんなに「似て」いても面白くはない。)しかしまた、それを「似ている」と感じるためには、いままで「気づかれ」てはいなかったその特徴を、観客たちがあらかじめ「知って」はいる必要がある。明確に意識化はされてはいないが、多くの人にとって薄々感じられていた癖や特徴がモノマネによって顕在化された時、人はそれを面白いと感じるだろう。本人の特徴的な癖や特徴は、このようにして、モノマネによって事後的に定着される。
だが、モノマネ以前にある本人の印象が、おほろげながらでもあるためには、オリジナルな本人の「(物質的な)存在」がなければならないだろう。モノマネによって事後的に定義される以前の本人の印象は、流動的で掴みどころがない。(物質として存在している「本人」の状態は、刻一刻と流動的に変化しているだろう。)モノマネには、そのような確定されていない感覚的な印象の不確かさを、ある種の単純化によって暴力的に確定するという機能がある。》
(これは一応「映画」についての原稿です。)