●ずっと「映画芸術」の原稿を書いていた。ツァイ・ミンリャンアルノー・デプレシャンの新作について書いた。一年つづいた「映画芸術」でのぼくの外国映画季評も、今回で最終回。
●何日か前から、何度か書いていたレクチャーについて。6月27日(火)、午後一時半から、東京造形大学の4-C教室で、「作品を、(観者)として外側から考えることと、(作家として)内側から考えること。(そのズレと重なり)」というテーマで(テーマは一応たてただけで、必ずしもそういう話になるかどうかは自信がないけど、まあ、自作を含めて、絵画について話す)レクチャーをやります。公開のレクチャーじゃなくて、あくまで絵画科の学生のための授業としてやるのだけど、ぼくなんかの話を、へんぴな場所(造形大へのアクセスhttp://www.zokei.ac.jp/function/access.html)まで、それも平日の昼間に、聞きに来ようなんて思う人がいるかどうかは分からないけど、もしいたら、大学に関係なくても勝手に来ちゃって大丈夫です。大学の正門を入ると正面が美術館なのですが、その美術館に向かって左側の建物のなかに、4-C教室はあります。(話がつまんなかったら、途中で抜け出して、アトリエの方とかを見物してみるのも、物珍しくて楽しいでしょう。絵画科のアトリエは、美術館から向かって右へ折れた奥の方にあります。アトリエのなかまで入ったら多分文句言われると思うけど、廊下をうろつくだけでけっこう雰囲気は味わえると思います。)
ツァイ・ミンリャンの『ふたつの時、ふたりの時間』をビデオで観たのだけど、これもまた、面白いのか面白くないのか良く分からない映画だった。おどろくほど周到に、丁寧につくられていて、よく出来た映画なのだけど、そのような映画を観て出て来る感想が、「よく出来てるなあ...」というだけなのはどうしたことなのか。(「よく出来てるなあ ! 」ではないのだ。)それはつまり、面白いのか面白くないのか分からない、という言い方をしつつ、気持ちとしてはほとんど「面白くない」に傾いているということなのだが、しかし、ここまできちんと作られている作品を、簡単に面白くないと言ってしまっては申し訳がないという気持ちを起こさせるくらいには、良く出来ている映画ではあるのだ。だが、申し訳ないとは誰に対して申し訳ないのだろうか。監督のツァイ・ミンリャンやスタッフ・キャストに対してなのか、それとももっと一般的な、人が良い作品をつくろうと努力する「気持ち(必然性、逃れ難さ)」のようなものに対してなのだろうか。