●必要があって、非常につまらない(下らない)内容の講義を長時間受けなければならなかった。内容は下らないが、講師は、職業的にいつも人前で話しているだけあって、喋りはこなれていた。昨日とは逆に、講義を受ける側になって、その講師の喋りの技法というか、形式のようなものを探るように見ていた。(と言うか、あまりにつまらない話なので、そうでもしていなければその長い時間を耐えられなかった、ということなのだが。)
●ぼくは昨日の講義で、事前に全体の構成をかなり綿密に練っていて、それとともに、話すべき内容(ネタ)も多めに仕込んであって、それは、ぼくが人前で話すということに全く自信がないからで、頭が真っ白になって話が滞ってしまったり、用意した内容を短時間で話し終えてしまって、さてどうしようと困ってしまったりするのが怖いからだ。例えば、絵を描いたり、文章を書いたりする時は、そのように最後まで段取りがみえているような状態を意識的に避けていて、まず出発点と成り得るような、それがもっと「育って」いくような感触をもつ「とっかかり」があり、それがどこに行くのか、どこまで育つのか、よく見えないうちに描き(書き)はじめる。つまり描く(書く)ということは(その時に必要な緊張感は)、その行き先や落としどころが(おぼろげにしか)見えない状態で、その不安のなかでこそ成立する(不安のなかでしか成立しない)ようなものだと思っている。でも、そのような不安定な状態を耐えられるのは、やはり「描く(書く)」ということの場数をそれなりにぼくが踏んでいるからで、流れが滞った時にもその「滞り」に留まりつつ、そこに踏みとどまりながら、最悪の場合でも、なんとか「形にする(形を取り繕う)」ことくらいは出来るだろうという、ある程度の自信があるからで(勿論、たんに形をとりつくろっただけの作品など最低のものなのだが)、全く経験もなければ自信もない「話す」ということになると、事前に最後までの段取りがちゃんと出来ていて、本番ではたんにそれを反復すればよい、というくらいにしておかないと「怖い」わけだ。(とはいえ、それでも実際にやってみると決して事前の段取り通りにはならないもので、その場の判断で適宜構成し直したりはするのだが。)
だいたいぼくは普段から話すのはあまり得意ではないし、話しをすることで人に考えや意見を伝えることも得意ではない。ぼくのことを個人的に知っている人は、ぼくに「講義」のようなものをやらせて大丈夫なのか、教壇の前でずっと黙って突っ立っているだけなんじゃないか、と思うだろう。でも、ぼくにも中途半端にせこい社会性のようなものはあって、引き受けたからには最低限それらしいものとして成立させなければいけないんじゃないかという義務感が生じて、時間内を言葉でちゃんと埋めなければいけない、とか思ってしまうわけだ。でも本当ならば、滞るとこや、空白や沈黙を「事前」に避けてしまうことは、一番マズいことなのだと思う。(その、滞ることや沈黙してしまうことが怖いからこそ、事前にきっちりと段取りを練り上げたのだった。)
で、何を言いたいのかというと、ぼくは昨日の講義で、先行きが見えないことの不安定さのなかでこそ作品はつくられるのだから、そこに留まらなければいけない、というようなことを繰り返し言ったのだけど、そういうことを言っているぼくの講義自体が、そのような「不安」を避けるように段取りも最後まで事前にきっちり決められていたわけで、やってることが言ってることを裏切っちゃってるんじゃねーの、ということなのだった。(繰り返すが、とはいえ、必ずしも全てが段取り通りに進行したのではないわけで、そこが「現実」の面白くもあり、怖いところでもある。)
●付け加えるとすれば、「不安」に対する踏ん張りが「描く(書く)こと」と「話すこと」とで異なってしまうのは、たんに経験の差だけではなく、「描く(書く)こと」が孤独に行われることなのに対して、「話す」ことは、具体的に目の前に人がいるところでなされる、という違いも原因としてあるようにも思う。