●例えば、粘土でつくる塑像は、いくらでも付け足したり削ったり、作ったり壊したりできる。つまり、延々と、自分が納得するまで、いつまでも手を入れつづけることが物理的に可能だ。しかし、作品というのは、その出来が良かろうが悪かろうが、納得出来ようが出来まいが、ある時点で一度「形」を固めて(仮留めして)みて、ひとつの「区切り」としての結果をあらわしてみることで、自分のやりたかったことを発見したり、それ以降の制作への課題やアイデアが出て来ることがある。つまり、一度、仮に「固めて」みることで、「改めて」の出発が可能になる。制作は決して、段階的に完成に近づいてゆくようにしてなされるのではなくて、様々な「決定」を仮のものとして保留したままで、流動的にその関係全体を動かしてゆくなかで、様々な項が、ある、「これだ」という関係をつくりだす地点を探っているわけで、だから制作の途上にある作品は、なにものでもない、形をもたない(ただポテンシャルとしてしか存在しない)雲のような状態な訳で、確かに、その状態で持ちこたえたままで、いかにポテンシャルを上げてゆくか、というのが作品を「育てて」いる状況なのだが、しかしそのような状態は人に高い緊張を強いるもので、その「育てた」ものは、しかるべき時に「形」として仮留めしておかないと、自分の手の内でせっかく育てたのに腐らせてしまうことにもなる。一つの作品を、自分が納得出来るまで妥協せず手直しをつづけるというのは、一見ストイックな態度にみえるが、おそらく、そうではない場合が多い。それは(多くの場合)、作品を「形」として仮留めするタイミングを見誤ってしまった、か、あるいは、自分の現在の実力がこの程度だと(自分が)認めたくないから、「形」にすることをためらっている、ということだろう(たいていの場合それは、駄目なものを駄目だと判断する勇気がないのだ)。どちらにしてもそれは、作品の発展を妨げる。どのみち、「作品をつくる」という行為をずっと継続して行うのならば、一度、とりあえずの区切りとして作品を完成としたところで、そこにあった問題は、次の作品にそのまま持ち越される訳だから、そこで何かが途切れるわけではないので、必ずしも「納得いくまで手を入れ続ける」必要はない。この時に問題なのは、では、どこで区切りを入れればよいのか、どうすれば、適切な位置で区切りを入れることが出来るのか、という点だろう。
●展覧会というのも、一つの区切りとして作用する。展覧会があろうがなかろうが、関係なくぼくは作品をつくるのだし(逆に言えば、展覧会が迫ってこようが、作品が出来ない時は出来ないのだし)、展覧会は、たまたま、それが始まる時点までで出来上がっていた作品を、じゃあ、これをどう観せたらよいだろうか、ということで構成されるに過ぎない。しかし、そうだとしても、展覧会としてまとめて展示することで、どうしても「ひとつの展覧会」としての「意味」を生じさせてしまうし、その「意味」は、たんにそれを観る観者に対して作用するというだけでなく、それを描いたぼくにも影響を与えるだろう。(例えば、ある作品が展示されて、別の作品が展示から漏れた、という時、それは必ずしも展示されなかった作品の方が良くなかったということではなく、展示空間との関係や他の作品との関係で、たまたまそれにふさわしい位置がみつからなかったということなのだが、それでも、展示されてなかったという(あくまで偶発的な)事実によって、展示されなかった作品の展開が、自分の作品の展開のなかでは傍流であるかのように、自分で思ってしまったりする危険すらある。)
ラカンの口まねをして言えば、制作は、あるいは生は、死ぬまで途切れることなく持続する流れであるとしても、それをある地点で人為的に「区切る」ことで(区切ることの効果によって)、事後的(遡行的)に、それ以前の、不確かな広がりであり、不定形で連続的な塊であった時間に、(ある程度)確定された「意味(形態)」を、良かれ悪しかれ、与えることになる。勿論、その「意味」は暫定的なものであり、それ以降にも何度も行われる「区切り」によってその都度、何度も読み直されるのだし、その時の「意味」からこぼれ落ちてしまったものもまた、だからといってそこで解決されたり消えてしまうわけではなく、そのまま次へと持ち越されるのだが。制作における区切り、つまり作品の完成は、多くの場合自分の意志によって決定されるわけだが、展覧会という区切りは、自分の意志ではどうにもならず、それは外からやってくる。