ベルトリッチ『ドリーマーズ』

●ベルトリッチの『ドリーマーズ』をDVDで。おそらくこの映画を観た多くの人がそうだったと思われるのだけど、あまりのことに開いた口が塞がらない、という感じだった。『リトル・ブッダ』くらいからのベルトリッチが、もはやあのベルトリッチではないことは知っているつもりだったけど、それにしても、これはいったいどうしたことなのか。何の屈託もなく、68年のジャン・ピエール・レオーと現在の彼の映像とを繋ぎ、主人公たちに、キートンチャップリンについて(ジミヘンとクラプトンについて)議論させ、映画史クイズに興じさせ、『はなればなれに』を(『中国女』を?)反復させたりするベルトリッチは、(現在からの)「語り」によって自らの過去(68年や「シネマ」)を意図的に「語り潰そう」としているのか、それともたんにボケているだけなのか。ベルトリッチ自身を反映しているような主人公を、凡庸なアメリカ人として設定したのは、たんに(英語映画にして)世界の市場に売るためのプロデューサー的な戦略なのか、それともそこに何かしらの批評意識が込められているのか、あるいは、現在ではそのような批評意識など全く機能しないことを身を以て示そうとしているのだろうか。この映画を隅々まで浸している何とも浅はかな幼稚さは、自身が過去につくった『革命前夜』の瑞々しい幼稚さのようなもの(あるいは神格化された「シネマ」)に対しての(悪意ある)脱神話化を意図しているのか、それともたんにグズグスになっているだけなのか。とにかく、あらゆることがあまりに見え透いているために、逆に、何をやりたいのかがさっぱり分からない難解な映画という感じなのだった。明らかにベルトリッチの自伝的要素が濃厚に混じり込んでいる映画なのにも関わらず、そこから歴史や時間がきれいに消し去られていて、つまり、自身の固有の体験に対する思い入れやこだわりが全く感じられず、まるで、過去のことを全く知らない若者が、老人の昔話を聞いて、ろくに資料も調べずにつくった映画のようになっているところが、何とも不思議なのだ。
●それにしても、美術というのか、室内の装飾などは隅々まで素晴らしくて、見惚れてしまうのだが。年齢を重ねるにしたがって、過去や時間の厚みをどんどんと剥落させてゆき、過激なまでに薄っぺらくなってゆくベルトリッチの映画は、薄っぺらであるがゆえのきらびやかさによって、その表面が埋め尽されているようにみえる。