●引用。メモ。ジョアン・コプチェク「(無)限定的世界の時代における悪」(『〈女〉なんかいないと想像してごらん』)より。カントと恩寵(そしてマイケル・フリード)について。
●《事実カントは、自分の道徳理論を、究極原因論に対する断固たる反対の上に打ち立てているのだ。道徳行為すなわち自由な行為は、いかなる目的も目指さない。そうした行為は、絶対的に無条件的であり、その行為を通じて実現される善のみのために善を行うのだ。しかし、カントは次のように論じてもいる。いかなる目的も自由な行為の根拠とはなりえないが、人間の行為からなんの結果も生じないと考えること、人間の行いになんの到達点もないと考えることは不合理である、と。(略)ある行為が、当座しのぎの反射的な行動にすぎないわけではないと考えるならば、それは、目的をもって行われ、なんらかの結果に帰着しなければならない。あらゆる目的や結果を疑うことは、最終的には、行為そのものを非倫理的なものとして禁じることになるのである。》
《人間の行為には必ず欠陥があると非難する内なる告発者(引用者注、超自我による厳しい検閲)によりも、最後の審判にしたがったほうがよいとカントが述べているとするならば、それはまさしく、目的を持った自由な行為が成り立つ余地をつくるためである。カントにとって、この「最後の審判」は、われわれが成し遂げることのすべてをちっぽけなものにしてしまう無限の前進という概念に真っ向から対立する。カントは、最後の審判がいい渡される時を、いつ来るのかわからない未来まで、絶えず延期されるその時が訪れるまで待てとはいわない。カントはまた、絶えず延期されるその時が訪れるまで、、享楽や行為はすべて断念しろともいわない。カントはこういっている。われわれは最後の審判を、いま、現在において受けることができる。なぜならそうした審判は、いつにせよ定められた日が来るまえに、なにかしらの見返りとしてではなく、贈り物として与えられるからだ、と。その審判は、快楽を慎ましく断念することや、「よりよい明日」が来るように真面目に働くことに左右されるのではない。最後の審判は、急に、思いがけなく、恩寵という純粋な贈り物としてやってくる。(略)われわれは、絶えず悪意を持っているように思えるが、まったく突然に、この最後の審判、つまり「[人間の]勤勉な仕事の成果を上回る....余剰」という「奇跡的」介入によって、「無限へと果てしなく漸進していく系列の全体性を代表し、[そして]なろうと思い描いているものそれ自体には、いつまでたってもなれない.....という[人間の]欠陥を補って」くれる「善い心術」すなわち道徳的性質を与えられるのだ。カントは、人間の心情における癒しがたい倒錯や、われわれの本性の核心に存在する悪についてさんざん語っておきながら、いまになって、人間は人間を超える道徳的性質を持つと信じるといい出し、さらに、次のように信じると大急ぎでいう。人間は、根源的に悪であると同時に道徳的性質をも持っている。「あたかもそれをすでに所有しているかのようにして」と。この賜物は、思いがけなくもわれわれのものなのだ。》
原理主義の台頭は近代化に対する抵抗であると普通は見なされており、したがって、増大しつつあるこうした抵抗勢力が、反撃の際にコンピュータやメディアを巧みに利用することは、その原理主義的メッセージと相容れないのではないかと思われているが、前進へのある種の信仰と宗教的ドクマティズムは実際には両立する。科学の前進というような考え方に固執すればするほど、天国への信仰はますます強くなるのだ。理性/科学は、手続き上、原因の原因、条件の条件を果てしなく求め続けざるをえないという意味において本性上のnatural限界を持たないので、無限の前進と言う空想を抱きやすいという構造があり、それゆえ学問上の懸命な努力は結局失敗に帰することになる。しだいにエスカレートしていく自己処罰(引用者注、道徳的であればあるほど厳しくなってゆく超自我の法)もこれと同様だ。だから皮肉なことに、感性的存在として生命をとらえようと試みると、われわれは生命から遠ざかり、生命を完全に把握する時は無制限に延期されることになってしまう。そうした試みを続ける自分を理性的に評価するならば、自己嫌悪という結果しか出てこない。ようするに、以上のような立場からは、救いは外部から、理性を超えたところからやってくるとしか考えられなくなるのであり、こうした傾向は現在ますます強まっている。》
最後の審判への招集は、このような宗教的ドグマティズムを支えている残酷な倫理を解体することを目的としている。というのは、最後の審判という賞与は、どこか理性を超えたところからやってくるものではなく、理性そのものからの贈り物だからだ。われわれは、理性によって自分自身の「性向nature」を克服できるのだから、「本性からしてby nature」道徳的存在である。カントは、道徳上の前進を、先行する世代が行動方針を定めて次の世代へと進む無限の漸進的進歩とは考えずに、個々の主体が、自分を支えている空想を消散させたり、心の奥底に抱く信仰から自分を解き放ったりするきっかけとなる回心と考えたのだ。超自我の法は、われわれが自己を見出す状況、受け継がれた環境、過去の改良版としての未来を形成するために引き継がれる責務、といったものにわれわれを縛りつけるわけだが、こうした超自我の法を例外的に停止させるようなものでないとしたら、カントの説明における恩寵はいったいなんだというのだろう。》
《すなわち、『たんなる理性の限界内の宗教』に現れる恩寵という概念は、行うべき命法(引用者注、道徳的原理)から人間を解放するものではない。(略)そう、恩寵は人間の行為actを貶めるものではないのだ。それは、行動actionに対してだけ、つまり物事を前進させ続けようとする狂乱的な業に対してだけ、無益なり、という宣告を下すのである。恩寵は、人間がなしうることは人間を救えない、神のみが救いをもたらすことができる、ということを意味しているのではない。そうではなくて、いかなるものもそれだけでは人間の行為を決定できない、ということを意味しているのだ。つまりこういうことだ、恩寵は人間を、罪から救うのではなく、人間が外部から支配されること、つまり経験的歴史によって支配されることから救うのである。》
マイケル・フリードの『芸術と客体性』の最後に唐突にあらわれる「恩寵」という言葉は、以上のようなカントの記述(に対するコプチェクの読解)をふまえると理解しやすいと思う。(リテラリズムへの批判の意味も解りやすい。つまり、上記のコプチェクの文脈で言えば、リテラリズム=ミニマリズムの作品は、外部から、つまり経験的な歴史によって支配されているような作品なのだ、と。)フリードは、このような恩寵を無理矢理視覚の「現在性(瞬時性)」へと性急に結びつけてしまっているから解りづらくなってしまうのだと思う。確かに、恩寵の瞬間は無時間的であるかもしれないが、その恩寵をもたらす理性的な判断が行われるのは、通常の時間のなかであるはずなのだ。(恩寵は、作品を経験する時間とは別の次元からやってくる。)そうであるとすれば、あきらかに多数の視点から観られるべき(よって、ある時間の幅のなかで経験されるべき)アンソニー・カロの彫刻を、無理して、「どの瞬間にあっても、完全に明示的である」などと言わなくもよいのではないだろうか。