ブライスコレクション「若冲と江戸絵画」展

東京国立博物館へ、ブライスコレクション「若冲と江戸絵画」展を観に行った。若冲の絵は、三の丸尚蔵館で観たのが圧倒的に良かったので、それと同等のものが観られるかと期待したけど、それほどではなかった。(「鳥獣花木屏風図」は、まあ、珍しいものではあっても、絵としてそんなに面白いものではない。ジミー大西の絵みたいだし。)ただ、「花鳥人物屏風図」などの、墨で描かれた作品の、その黒のきっぱりとした美しさに惹かれた。でも、確かにその技巧はすごいけど、最後の最後のところ、作品を成立されるフィニッシュのところで、自分の技巧というか、手癖のようなのもに寄りかかってしまう感じがあって、(あまりにも上手いのでなおさら)そこが気になってしまう。なにか「通俗的だなあ」と思ってしまうのだった。(「鶴図屏風」で、おそらく意図的に反復させているのだろう、楕円のような形とか、「鶏図」のしっぽの曲線とか、かたちの癖っぽさに、「得意げ」な感じがみえてしまって、嫌味な感じなのだった。)
面白かったのは、金箔や銀箔を地にして描かれた絵を、照明を変化させて観せているコーナーで、光の具合で背景の金や銀の見え方が大きく変化する様子が見られるのだった。これはあからさまにシアトリカルな効果なのだけど、これらの作品が描かれた江戸時代にはフラットに光があたるような照明などなく、作品も、美術館のような場所ではなく、普通に人が生活したりしている屋敷のなかに置かれていたのだ、ということが、このような照明の工夫で改めて実感させられた。金のような、視覚的に不安定なものを背景にして絵が描かれることの意味というか必然性のようなものを、改めて考えさせられた。(それは、フレームの外にあるものとしての(実際の変化する)光を、フレームの内側に取り込むような装置としてあるのではないだろうか。)
企画展示がされている平成館はそれなりに混んでいたけど、通常の展示が行われている本館や東洋館は空いていて、ゆっくりと観ることが出来て、いろいろとじっくり観てまわっていたら、五時間以上も時間が経っていて、芸大でやっているルーブル美術館展も観ようと思っていたのだけど、さすがに疲れて断念した。作品というより遺跡と呼ばれるようなものを観て最近つくづく思うのは、人が「美術」のようなことを通じてやろうとしていることは(そのボキャブラリーは)、何千年も前から、そんなに大きくはかわっていないのだなあ、ということなのだった。題材が、宗教的なものから世俗的なものに移行したり、具体的な対象が描かれていたのが、抽象になったりという変化は、あるいは、その表象物の社会的な機能や位置の変化や、素材や加工技術の変化などは、それはそれで大きな変化なのだろうけど。