相米慎二『雪の断章・情熱』

相米慎二『雪の断章・情熱』をビデオで。この映画は相米監督の作品中でも地味な位置に置かれていて、スクリーンで上映されることもほとんどないし、ぼく自身、観たのは十年以上ぶりだと思う。しかし(『風花』について書いた時にも触れたのだけどhttp://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20060511)、これはあまりに濃厚に相米的であり、ぼくははじめから最後までほとんど泣きっぱなしという感じだった。お話の次元ではあまりにベタな話で、昔流行った大映ドラマか、最近流行の『牡丹と薔薇』系のドラマみたいな話で、大映ドラマは、ベタな話を「ネタとして消費する」ことを前提につくられていて、最近の『牡丹と薔薇』系の昼ドラは、ベタな話のベタさ具合を意識しつつ(軽く笑いつつ)も、しかしそれをベタに消費する(ベタに惹かれる)というものだろうけど、『雪の断章・情熱』は、ベタな話によってしか生起しないベタな感情を、ベタであることによってしか生まれ得ないリアリティとしてたちあげるために、映画としてきわめて強引で極端な演出がさなれている、というようなものだと思える。(例えば『セーラー服と機関銃』では、ポストモダン風であるという「言い訳」のもとで、それとは別の、「映画的」というしかない何かをたちあげようとしたものだと言えると思うけど、『雪の断章・情熱』はちょっと違うように思う。)
これもまた、『風花』について書いた時に触れたことだけど、『雪の情熱・断章』は、『風花』で、小泉今日子が、柄本明の演じる素人芝居の舞台に上がって、紙吹雪による雪を受けるシーンを、映画全体に拡張したような映画なのだった。つまり、映画全体として学芸会のような素人芝居であり、そのお話もおとぎ話のような陳腐なもので、そうであることによって、人が「お話」というものに惹かれてしまう原初的な感情をたちあげる。『風花』の小泉今日子の死への傾倒や、『雪の情熱・断章』の斉藤由貴を包み込む重たい暗さは、その現実上の境遇の不幸さによっては説明できず、むしろ彼女たちがとらわれている「お話」の磁力からくるもののようにみえる。だからその感情(感傷)は、彼女たちにとっての現実と、彼女たちがとらわれている「お話」とが重ね合わされた時に、生々しいものとしてたちあがってくる。『風花』の小泉今日子が素人芝居の舞台にあがった時、彼女は、田舎に子供を預けて一人で東京で働くソープ嬢という現実上の彼女に、幻想として彼女を縛り、裏側から支えてもいる「お話」のなかの彼女が、ふっと重なったのだ。だからこそ、その後、その重なりを完全なものとするため(あるいは、その二つのズレを消してしまうため)、雪の林へと入り込み、死へと向かってしまうのだった。(主体のまわりにある現実的な状況と、主体を裏から支える幻想としての「お話」とを完全に一致させるものは「死」しかないだろう。だから、その一瞬の重なりには痛切な感傷が生起があり、その感傷は常に観念としての死への傾倒を含み持つ。)お話がその磁力を発揮するためには、それが現実と混じり合うことなく、あくまで現実とは別のものとして「お話」という枠内に収まっている必要があり、しかし同時に、それが現実の方へと漏れ出てきたり、現実がお話へと流れこんだりする必要があるだろう。つまり、双方は分離しつつも、その一部でつながっている。『雪の断章・情熱』の最初の、あの強引な十何シーンをも連続したワンカットでとらえる演出は、その部分がこの映画で「お話」のパートであることを示している。人工的なセットを組んで実現される高度な長回しは、そこで行われる芝居の学芸会的な陳腐さと相まって、斉藤由貴に起こった過去の出来事でありながらも、それが具体的にいつ起こったという時間的な秩序から浮遊した、非現実的な次元に存在する「お話」でもあり、そのようなお話として彼女を縛っていることが、見事に表現されている。そしてその後に語られる、成長した主人公たちを巡る(現実としての)話もまた、「お話」と同様に陳腐でベタなものであること、画面が常に、引いた位置のカメラから撮られたもので、俳優に接近した時でも、暗く、どこか不鮮明なものであること、現実的なパートのなかにも、非現実的なものたち、ピエロや人形、子供の頃の彼女などが、しばしば混じり込むこと、しばしば、物語を語るものとしては突飛であるようにおもわれる演出がなされていること、そして、北海道の風景の、どこか現実離れした感じや、暗さ、などによって、学芸会的な冒頭の「お話」のパートが、現実のパートの裏側に常にはりついていて、そしてそこからなにものかが(現実の方へと)常に漏れだしてきていることが、表現されている。
例えば『台風クラブ』での、台風の夜の中学生たちの狂乱があんなにも痛切な感情を生起させるのは、それが、「お話」の次元が現実へと雪崩れ込んで来た瞬間だったからではないだろうか。しかし、『台風クラブ』の主人公も、『風花』の主人公も、現実とお話を一致させるための「死」に失敗するところで映画は終わる。(『ションベンライダー』のような)相米監督の本当の傑作においては、そのような痛切な感情(感傷)の生起があるだけでなく、それと同時に、それを振り切るほどの強さをもったアクションが実現されているようにも思う。