●本屋で新刊の棚に並んでいる小説の本(日本の現代作家の本)の何冊かを、その書き出しの十ページくらいを、それなりに真剣に立ち読みしてみたのだけど、そのどれもが自分からあまりにも遠いもののように感じられてしまうのだった。(唯一、すんなり受け入れられたのが中原昌也だったのだけど。)で、結局レジへ持っていったのが、最近話題の『涼宮ハルヒ』だったりする自分を「薄っぺらだなあ」と思ったりする。(谷川流の本は、以前に一度読もうとしたことがあったのだけど、つまらなくて四分の一くらいで放棄してしまったので、あまり期待は出来ないのだが。)原稿の続きを書く。書いている原稿にヴァージニア・ウルフを引用したこともあって、帰ってから岩波文庫の『灯台へ』を(原稿に引用したのは『灯台へ』ではなくて『存在の瞬間』という回想録のようなテキストなのだけど)適当にパラパラと開いて、開いたページを読んだりしたのだが、これが、どこをとっても素晴らしいのだった。以下、たんに「書き写してみたいという欲望」のみによって、ひとつの場面を引用する。
●《これ以上冷静で物静かな態度もなかっただろう。バンクス氏はおもむろにペンナイフを取り出すと、骨製の柄でキャンバスを二、三度軽くたたき、この紫色の三角形は何を表しているんですか、「ほら、ここの部分ですよ」と尋ねた。
それはラムジー夫人がジェイムズに本を読んでいるところですよ、とリリーは答えた。でも全然人間の形に見えないんですが、というバンクス氏の批判はあらかじめ予測できた。わたしは見た目の姿を似せようとは思っていないんです、と答えると、それならなぜあの二人を描くんですか、と彼も食い下がる。本当になぜでしょうね、あえて言えばこちら側が明るいので、この一画には暗い色合いが欲しかったということかしら。いかにも素朴で明白でわかりきった説明ではあったが、バンクス氏は興味をひかれた。母子像といえば、普遍的に敬愛される対象だし、この場合母親の美貌はきわだっているのに、その母子の姿を影にかえてしまっても、不謹慎にならないことがあるのだろうか、と考えこんだようだった。
でもこの絵はあの二人の絵ではないんです、少なくともバンクスさんが考えているような意味では。敬愛の表現の仕方、感じ方にはいろいろあるはずです、とリリーは言う、たとえばここに影をおき反対側に光をおく---それがわたしの賛辞が取る形なんです。わたしだって、ぼんやりとですが、絵画というのはある種の賛辞であるべきだ、とは思っています。母子の姿が影にされても不謹慎にはならない、こちらの光があちらの影を要求するのだから---そのアイディアについてバンクス氏は深く考え、興味をもった。科学者らしく、リリーの言葉を誠実に受けとめもした。正直に言えば、これまでは全く違った偏見をもっていました、と彼は説明した。うちの客間の一番大きな絵は、友人の画家たちも買い値以上の価値があると言ってほめてくれるのですが、ケネット川の土手に咲く桜の木を描いたものです。実はその川のほとりで新婚時代を過ごしたことがあって、リリーさんもぜひ一度見に来てほしいんですが.....。それにしても---と彼は振り向いて、眼鏡を上げながらキャンバスを注意深く見つめた。マッスどうしの関係だとか、光と影のバランスの問題だとか、率直なところこれまで考えたこともなかったので、説明してもらえると助かるのですが---たとえば、この場面からあなたは何を作り出したいのですか、とバンクス氏は言って、目の前に広がる光景を指さした。リリーもそれを見つめて言った、ここから何を生み出したいのかはっきり示すことはできませんし、絵筆を握らないと自分でもよくわからないのです。彼女は以前からの立ち場所に再び立つと、むしろ目をかすませ気持ちをうつろにさえしながら、一人の女性として受けるさまざまな印象を、もっとはるかに一般的で非個人的な感覚に包みこもうとした。それは、あのヴィジョンの力のもとにもう一度身を置きたかったからで、そのヴィジョンとは、一度は確かに明瞭に見届けられながら、今では失われ、生垣や家屋敷、母や子の姿のなかに手さぐりで探し求めざるをえなくなったもの---つまりは彼女の絵の本質とも言えるものだった。思い出してみると、それは右側のマッスと左側のマッスをどう結びつけるかという問題に帰着するのかもしれません。たとえば木の枝の線をこうやって横向きに伸ばしてもいいし、あるいは何かの姿(たとえばジェイムズで)で、前景のブランクを埋めることもできそうです。ただそうすると、今度は全体の統一感を崩しかねないし.....。彼女は話をやめた。これ以上バンクス氏を退屈させても仕方がない。イーゼルから手早くキャンバスを取り下ろした。
でも、絵は見られてしまった。手からもぎ取られたような気分だ。この人は、わたしの心の奥にある内密なものを分けもつことになった。むしろそのことに対して、ラムジー氏やラムジー夫人に感謝し、この時間、この場所にも感謝したかった。身の回りの世界には思いがけぬ力があるものだ。これからは絵に取り組む長い道程を、一人きりでなく、誰かと腕を組んで歩けるのかもしれない---とても奇妙でわくわくする気持ちだ---そう考えながら、リリーは絵具箱の留め金をいつも以上にきっちりと閉めた。その留め金の小さな音は、目には見えない輪の中に、絵具箱も、芝生も、バンクス氏も、そして傍らを走り抜けたおてんば娘のキャムさえも、永遠に包みこんでしまうように思えた。》(ヴァージニア・ウルフ灯台へ』御興哲也・訳 岩波文庫p96〜99)