『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流)

●『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流)は、思ったよりも面白かった。全体を構成している一つ一つのパーツはわりとよくある話で、ありふれているけど、それを、「こう繋げるのか!」、という驚きがある。もしぼくが、小中学生の頃に読んでいたら、かなりハマっただろうと思う。佐藤さとるのコロボックルシリーズ+「うる星やつら」+宇野鴻一郎のエロ小説という印象(例えが古い)。
●この小説で一番上手いところは、一人称のマジックの使い方だろうと思う。(しかしそれは、一番面白いところ、ではない。)なんといってもこの小説は話者である「きょん」にとって徹底的に都合の良い世界だろう。きょんはこの世界の王であり、すべてはきょんの思い通り(欲望通り)に進む。しかも、きょんは徹底して受動的な人物で、自分からは何もしない。だから何が起ころうが、きょんに責任はない。朝比奈みくるへのセクハラは、きょんの欲望に沿っておこなわれているのは明らかであるが、実行しているのはハルヒであるから、きょんには何の責任もなく(うしろめたさすら感じることなく)、彼はただ「おいしいところ」だけを受け取れば(かすめ取れば)よい。これはあらゆる場面においてそうだ。きょんはなにもしないで、ただ存在していれば、ハルヒが世界をいろいろ引っ掻き回してくれるから退屈しないし、一緒に遊ぶSOS団の他のメンバーたちも、ハルヒが勝手にあつめてくれる。危険が迫れば、宇宙人が超能力者か未来人が助けてくれる。きょんは、上げ膳据え膳の殿様のようであり、無力であることによって全能である(周囲の大人にすべての世話をしてもらえる)新生児のようだ。なにしろ、この世界の「神」のごとき存在であるハルヒでさえ、最終的に「たった一人の相棒」として、なぜか(理由もなく)「きょん」を選ぶのだ。(ここで「理由もなく」ということ、つまり、彼が特に優秀だったり美しかったりするわけではない、というところが重要だろう。)にもかかわらず、きょんは小説の話者であることによって、あたかもニュートラルな傍観者であり、周囲の状況に無理矢理巻き込まれただけの、登場人物中最も凡庸で無力な人物であるかのように振る舞うことができる。シニカルな饒舌によって、あたかも世界から一定の距離をとる、クールな存在であるかのようにさえ見えてしまう。しかし、この小説で、「非日常的な出来事」を最も求めているのは、つまり宇宙人や超能力者や未来人や美少女を幻想しているのは、きょんであるが、しかし彼は自分からは何も行動(努力)しない。彼のかわりに(そして彼のために)最強のキャラクターたちがいろいろお膳立てをしてくれる。きょんはただそれに乗っかればよいだけだ。しかも、主観的には、彼は巻き込まれて迷惑している(迷惑しつつ楽しんではいるけど)と思っているから、周囲の者たちに、感謝することもなく、引け目を感じることもなくて済む。つまり、「作者」は「きょん」を徹底して甘やかしている。そして、きょんは小説の話者であり、一応は最も普通に近いキャラクターであるので、読者は、きょんの視線から、彼に寄り添ってこの小説世界をみることになり、彼に最も感情移入しやすい。つまり、このことによって、作者が「読者」を徹底して「甘やかす」ことが可能になる。
●子供の頃によく考えた妄想がある。自分が見ていない時、世界はまったく違う形になっているのではないか。世界は実はハリボテのようなものか、あるいは、自分が見ていない時は、どろどろの不定形をしていて、自分が目をむけた時だけに、とりつくろうように形を整えるのではないか。そして、自分のまわりにいる人たちはすべて、その「役」を演じているだけで、自分だけがそのことを知らないのではないか。後に、手塚治虫にまったくこれと同じようなストーリーの短編があることを知って驚いた。つまり、このような妄想は誰でもが抱くということだろう。あるいは、自分が何か「悪いこと」を考えると、それが実現してしまうのではないかという恐怖を抱いたりもした。これはある種の「天動説」のようなもので、つまり、自分を中心に世界がまわっているという感覚が色濃くあり、しかし、にもかかわらず、世界は自分にとって未知のもの(因果関係を探れないもの、そこに決して介入できないもの)であふれている、という感覚が混じり合う時に、必然的に浮上するような妄想なのだと思う。このような妄想は、十代にもなるとさすがにリアリティを失うが、しかし、自分が世界の中心であったころの「気分」や「感覚」は、そう簡単に消えるものではない。むしろそれは、人間の感情の基盤のように作用しつづける。現実の様々な事柄が、自分が決して世界の中心にいるわけではないことを告げるので、「知的」にはそれを受け入れざるを得ないものの、「気分」としてそれはずっと色濃くのこってゆくだろう。(それはおそらく、自分はきわめて合理的で科学的な人間だと「自分では」思っている人でさえ、死ぬまで解決されずに残りつづけるのではないだろうか。)そしておそらく、十代の始め頃というのは、「知的」なものの要請(自分が世界の中心ではありえないこと)と、それに対する感情的抵抗(自分が世界の中心にありつづけようとすること)との齟齬が、最も強い緊張をもってあらわれると言えるだろう。『涼宮ハルヒの憂鬱』の、つぎはぎだらけのかなり強引のパッチワークのような物語は、そのような齟齬に対応するように、かなり見事に構成されていると思う。