●午前中から昼過ぎくらいまで制作。新しいことの滑り出しとしては、まあ、いい感じ。午後から、制作で過剰に酷使した頭をクールダウンさせるために、二時間くらいかけてゆっくりと散歩する(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sanpo.html)。それほど暑くなくて、散歩にはちょうど良い。その後、画材屋で足りなくなったものを買い足す。ついでに本屋で浦賀和宏の本を買う。夜は、安ワインを飲みながら、DVDで、『涼宮ハルヒの憂鬱(2)』、『ひぐらしのなく頃に(壱)』、『ケロロ軍曹(1)』を、だらだらと観る。
●アニメ版『涼宮ハルヒ』は、あくまでも原作を読んだ上で観るものとしてつくられているような感じで、つまり、原作のあの部分を、アニメではどう処理しているか、というような見方をしないとあまり面白くないように思う。話を圧縮し過ぎていて、ダイジェスト版みたいになっている。というか、物語や世界観のようなものは当然共有されているという前提で、つまり「お話」を語ることは放棄して、例えば具体的な風景やキャラクターの衣装などの細部を作り込んで「ハルヒ的世界」を豊かにしてゆくことだけが目指されているような感じだ。原作自体が、小説として自律しているのではなく、視覚的な部分はイラストが担当していて、その両方で成り立っているわけで(イラストを描いた人も原作者としてクレジットされている)、作品というより、様々なメディアを複合させて「涼宮ハルヒ」というキャラクターを商品としてたちあげようということなのだろうか。ただ、原作の小説は、はじめからそのようなプロジェクトの一端として書かれたわけではなく、新人賞の応募作品として独立して書かれたもので、つまりやはり「作品」として書かれたもので、それが起源としてある、ということは大きいように思う。(それがなければあまり面白くない。)『ひぐらしのなく頃に』は、まずアニメとしての質が低くて、その次元で面白くない。それと、ぼくはゲームをまったくやらないのでよく分らないのたけど、『涼宮ハルヒ』のような、書かれ、読まれるものとして最初に設定された一人称と、『ひぐらし』のような、ゲーム内の世界とゲームプレイヤーとのインターフェイスとして最初に設定された一人称とでは、かなり感触が違うものだ、と感じた。何というか、『ひぐらし』では「語り」よりも「(世界)構造」の方が常に強く意識されるような感じだ。(どちらも、「語り=時間(展開)」という要素が弱いのだけど、その弱さの有り様が違っている。)『ケロロ軍曹』は、子供って、こういう誇張されてきっぱりとしたリズム感が好きなんだなあ、と納得させられる。このはっきりと分りやすい緩急のあるリズムこそが、「語り=時間」を支えていると思う。