「わたしの場所の複数」(岡田利規)

●「新潮」10月号に載っていた「わたしの場所の複数」(岡田利規)はとても面白かった。出だしの部分は、この「なんちゃって金井美恵子」みたいな作風はどうなんだろう、と、疑問を感じつつ読んでいたのだが、読み進むにつれて次第にその否定的な印象は修正されてくる。横たわる女性の一人称で、倦怠感や無気力感を基底的な調子とし、シーツに密着する自らの身体への強い執着や関心とともに語りだされる語りは、携帯電話やメールやインターネットなどのメディアを介することで、その語られるものの範囲を徐々に広げ、それがまた身体や気分への執着によって小さな範囲へと収縮する、という運動を繰り返しつつ、徐々にその広がりと収縮の範囲(落差)を大きく広げてゆく。それでも前半は、今時のメディア的な環境を器用に取り入れた、いかにもありがちな展開にも思えるのだが、その視点の広がりと縮小の運動(振幅)の強まりは、次第に「ありがちな現代風俗」の範疇を超えるまでになってゆく。ここに描き出されていることは全て、徹底して、現代のメディア的な環境であり、現代の労働・生活環境であり、現代の風俗であり、現代の風景であり、それらのサンプリングなのだけど、一人称による孤独な語りが、拡大し、縮小し、増殖し、分裂してゆく律動は、その徹底して薄っぺらな紋切り型でしかない「現代」から、ある一人の人物の(一つのカップルの)生の核にあるもの(関係の核にあるもの)を、時間をかけて、冗長ともいえる語りを重ねることで、じっくりと浮かび上がらせてゆくように思う。(個々の場面をみると、そんなに充実していると思えるところはなくて、冗長なものの積み重ねにみえるのだけど。)読んでいる時間の多くを、疑問や保留を抱えつつ読み進めていたのだが、その疑問と保留のまま時間を積み重ねるなかで、徐々に広がってゆく場面、大きくなってゆく振幅によって、読み終わる頃には、この小説がすっかり好きになっているのだった。
この小説を読んでいて、ほくは、途中からずっとRCサクセションの『トランジスタ・ラジオ』のことを思い出していた。ぼくはRCサクセションが特別に好きなわけでもないし、『トランジスタ・ラジオ』が曲としてそんなに面白いとも思わない。しかし、ぼくはこの曲が示している場面というか、風景に、凄く惹かれてしまう。男の子が授業をサボって屋上でタバコをふかし、今、授業を受けているであろう「彼女」のことを思いながら、ラジオから流れて来る音楽を聴いている。しかし、「彼女教科書ひろげてる時」という詞は、授業をサボっている男の子が、彼女はそうしているであろうと想像しているのか、それとも、彼女は今、実際に教科書を広げているのだという客観的な描写なのか、どちらなのかは分らない。いや、この曲は男の子の側から歌われているから、それが客観的な描写であるはずはないのだが、しかし、この曲を歌い、または聴く者は誰でも、この男の子と半ば同化しつつも、この男の子とぴったり重なる訳ではないので、この曲を聴いている時、男の子の気持ちに染まりつつも、その気持ちに染め上げられた情景全体を外側から見ている、ことになるのではないか。ということはつまり、この曲の「内部」にいて、屋上でタバコをふかしている当人である男の子(一人称の話者)もまた、屋上でサボっている自分と、教室で教科書を広げている彼女の姿の両方を、その外側の引いた位置から見ているのだ。だからこそ、「こんな気持ち、うまく言えた事がない」ということになるのだ。
「わたしの場所の複数」を読んでいる時に感じられる不思議な感じも、これに近いと思う。「わたし」の一人称で語られる話に、「わたし」には見えていない(知らない)はずの、夫がベッカーズで仮眠している姿が唐突にあらわれる時、それをどう捉えたらよいのか。それは、話者である「わたし」の意識の内部の事柄であるようにも感じられる。(なにしろその場面には、若い頃の「わたし」さえ登場するのだから。)しかし一方で、やはり「わたし」の意識の内部に完全には還元できないものであるようにも感じられる。そしてこの不確かな感触は、「わたし」の語りの地平そのものの根拠をもあやしいものとする。
しかし、そのものずばり「わたしの場所の複数」と題され、「わたし」の語る基底的な場が(拡大したり、縮小したりしつつ)複数に分裂するこの小説の、「わたし」の分裂の有り様(構造)を分析することが重要なのでは、実はないと思う。そうではなくて、「わたし」を「分裂されているモノ」が、分裂しているそれぞれの「わたし」において「どのようなあらわれ方」をしているかということの具体的手触りこそが重要ではないだろうか。「わたし」を「分裂させているモノ」とは、常に違和感を生じされる身体そのものであり、身体に触れているシーツであり、その内部に閉じ込められている部屋=環境であり、メールやインターネットというメディア環境であり、住んでいる環境=風景であり、労働する環境であり、家族=母であり、そしてなにより「夫」であろう。話者である「わたし」は、それら全てに自分の(気分という)匂いをべったりと纏わせつつも、しかしそれらを完全に自分の内部に取り込むことは出来ない。「わたし」は環境とともにあり、環境によって「わたし」であるのだが、しかし、複数の環境のどれからも、「わたし」はこぼれ落ちる。
現代という環境(複数の環境の束)にまみれ、現代という環境のなかから生じる「わたし」の感触を描き出すこの小説が、それでもたんに「現在」に還元され切ってしまわない何かを感じさせるとすれば、それはやはり「夫」の存在(「わたし」の「夫」への興味)によるのだろう。この小説の関心の核は、現代的な環境そのものにあるのではなくて、そのような環境のなかで、とのように「夫」との関係を結びうるか、というところにこそあるのだと思う。(ベッカーズで仮眠をとる夫という、どこにも位置づけられないシーンがこの小説に登場するのは、「夫」の存在によってであり、その存在する「夫」への「わたし」の関心によると思われる。)ここでは、他者への関心によって、「わたし」が環境や現在へと拡散してしまわないということを支え、この小説の複雑な形式がたんに「形式のための形式」になってしまわないということを支えていると思う。