●引用。メモ。ジジェク『斜めから見る』、第七章「イデオロギー的サントーム」より。ジジェクの言う「行為(行為への移行)」の意味。似たようなことは『汝の症候を楽しめ』などにも書かれているのだが、こちらの方が説得力がある。
《これはまた「エスのあったところに、自我をあらしめよ」というフロイトのモットーに対する、晩年のラカンの解釈でもある。自分の症候の〈現実界〉の中に、自分の存在の究極の支柱を認めなければならないのである。自分の症候がすでにあった場所に同一化しなければならない。その「病理学的」特異性のなかに、自分の整合性を保証する要素を見出さねばならないのである。これで、ラカンがその最晩年に、「標準版」ラカン理論からどれほど遠く離れていったかがよくわかる。一九六〇年代にはまだ、ラカンは症候を「主体が自分の欲望に与える道」と捉えていた。つまり症候は、主体がその欲望を持ちこたえなかったという事実を語る妥協的形成物であり、だからこそ、欲望の真実への接近は、解釈による症候の解消を通じてのみ可能なのである、と。大雑把にいえば、「幻想を通り抜ける---症候への同一化」という公式は、われわれがごく自然に「本物の実存的立場」と信じているもの、すなわち「症候の解消---幻想との同一化」という公式の裏返しである。ある主体的な立場の「正当性」は、まさに、われわれが病的な「痙攣」からどれだけ解放され、「根本的・実存的投影」である幻想とどれだけ同一化したか、によって計られるのではなかろうか。それとは対照的に、晩年のラカンによれば、分析が終了するのは、われわれが幻想に対して一定の距離をおき、われわれの享楽の整合性が依存している病的な特異性に同一化したときである。》
《(「症候への同一化」を理解するためには、)アクティング・アウトと、ラカンのいう「行為への移行」との違いを明確にしなければならない。一般的にいって、アクティング・アウトは依然として象徴的行為、すなわち〈大他者〉に向けられた行為であるが、「行為への移行」は〈大他者〉の次元へを保留し、行為は〈現実界〉の次元へと移される。》
《後者の(そして「症候への同一化」の)好例が、セルジョ・レオーネ監督の『ウェスタン』に登場する「ハーモニカ・マン」(演じているのはチャールズ・ブロンソン)である。少年の頃、彼はある外傷的な光景を目撃した(もっと正確に言えば、心ならずもその協力者になった)。盗賊たちが彼の肩に彼の兄をのせ、兄の首のまわりに、天井から下げた縄の輪を巻き付けた。弟はさらにハーモニカを吹きつづけるように命じられた。彼が疲れ果てて倒れたとき、兄は宙ぶらりんになって、首がしまり、死んだ。以後、弟は一種の「生ける死者」として人生を生きることになる。彼は「正常な性関係」をもつことができず、ふつうの人間の感情や恐怖のサイクルを超えたところで生きる。彼が「発狂」して自閉症的なカタトニーに陥るのを食い止め、彼になんとかある程度の整合性を保たせている唯一のものは、彼の独自の「狂気」、特殊な形の「狂気」、すなわち症候=ハーモニカとの同一化である。友人のチェイエンヌは彼についてこう言う。「彼は話すべきときにハーモニカを吹き、ハーモニカを吹いたほうがいいときに口を開く」。誰も彼の名前を知らず、彼はいつでもたんに「ハーモニカ」と呼ばれている。外傷的な光景の責任者である盗賊のフランクから名前を訊かれると、彼は、自分が復讐したい死んだ男たちの名前を挙げる。ラカンの用語を使えば、ハーモニカ・マンは「主観的窮乏」を経験したのであり、彼には名前がない(レオーネの最後の西部劇作品のタイトルが『マイ・ネーム・イズ・ノーボディ』であるのはおそらく偶然ではない)、つまり彼をあらわすシニフィアンがない。そのため彼は症候との同一化を通じてのみ整合性を保っているのである。「主観的窮乏」によって、真実に対する彼の関係そのものが根本的な変化をこうむる。ヒステリー(およびその「方言」である強迫神経症)においては、われわれはつねに真実の弁証法的な運動に参加する。だからこそ、ヒステリー的発作の絶頂におけるアクティング・アウトは依然として真理の座標によって決定されているのだが、「行為への移行」はいわば真実の次元を保留する。真実が(象徴的)虚構の構造をもっているかぎり、真実と享楽の〈現実界〉とは両立できないのである。》
●主体は、外傷的な記憶を何度も回帰させてしまう。これは、意識によっては制御できない欲動のはたらきであり、つまり自動的で強制的なもので、おそらく黒沢清高橋洋の言う「運命」とは、このような欲動のはたらきのことだ。運命とか外傷とかいう言葉を好まないのならば、もっとマイルドに「趣味」と言ってもいいかもしれない。趣味とはむしろ、外傷ではなく「良きもの」を(意識的に、あるいは意識/前意識の次元で)反復させようとする「幻想」に関わるものと考えるのが普通かもしれないが、しかし同時に、趣味にはもっと血なまぐさい「運命」の匂いも染み付いているのではないだろうか。趣味とは、有無を言わせず回帰する外傷のなまなましさを、マイルドに加工しようとする(加工することで蓋をしようとする)働きのもつ、ある傾向性のことではないだろうか。だいたい、作品というものは、回帰することに耐えられるように加工された外傷のことだともいえる。(つまり加工することによって再度それを抑圧するのだが。)ここで間違ってはならないのは、作品の面白さやリアリティは、その「回帰されたもの=外傷」(内容)そのものにあるのではなくて、それがどのように「加工」されているのか、という点にある。(もし、作品の意味が外傷=内容であるならば、作品の受容は外傷の共有化=共感でしかなくなってしまうだろう。しかし勿論、そもそもそこに回帰するもの=外傷がないならば、作品は核を失い、空虚な形式となるしかないだろうが。)フロイトは『夢判断』の脚注に、多くの分析家が、夢の本質をその「潜在内容」にあると勘違いしているため、潜在的な夢思考と夢作業とを混同しがちなのだが、夢の本質はあくまで「夢作業」の方にあり、それのみが夢の性質を解き明かすのだ、ということを書いている(その部分を、ジジェクが『イデオロギーの崇高な対象』で引用していた)。この「夢作業」こそが、「症候」に関わるのだろう。