●『復讐・消えない傷痕』(黒沢清)を久々にビデオで観た。黒沢清の全作品のなかでも特権的な、掛け値なしの傑作だと思う。つくった監督自身が何と言おうと、これは明らかにこの時期の黒沢監督の「自画像」であり、この時期に置かれていた状況に根拠をもつと思われる。(だからこそ、この映画に魅了される者は、感情的にも黒沢清に転移してしまう。そのような意味でも、黒沢清は決して「職人」ではなく、あからさまに「作家」であろう。)そしてそこでは「私」は二つに分裂している。復讐という「掟(呪い)」に縛られている哀川翔と、掟を見失い迷走する菅田俊。この二つの私の分裂(と交錯)は、たんに説話的なレベルであるのではなく、映画としての時間や空間の有り様にこそあらわれている。そしてこの映画で「凄み」があるのは、哀川翔ではなく圧倒的に菅田俊の方だろう。だから(『CURE』を挟んで)この後につくられることになる『蜘蛛の瞳』では、共に「掟」や「目的」を見失った二人の人物(哀川翔とダンカン)の分裂というか、行き違いが描かれる。(『復讐・消えない傷跡』ではかろうじて機能していた説話的な時間の統合は『蜘蛛の瞳』では失われ、どこへも向かわない時間が、退屈に、そして不気味に漂う?)
●この時期の黒沢清は、類似の設定で出演者の重なる映画を二本同時につくっていて、『復讐・消えない傷跡』は『復讐・運命の訪問者』と同時に、『蜘蛛の瞳』は『蛇の道』と同時につくられている。そしてここで同時につくられた二本の映画は、互いを補完するような関係になっている。一方が、ジャンル映画としての高い完成度が目指されていて、もう一方は、そこからはみ出すような、なんとも形容しがたいものとなっている。
●二つの「私」の分裂した有り様は、この後の黒沢映画の特権的な主題となる。『アカルイミライ』の浅野忠信とオダギリジョーは、『復讐・消えない傷跡』の、自滅する菅田俊と、菅田との約束のために復讐のあとにアサヒナ温泉に向かう(あるいは、どこでもない場所へと向かう)哀川翔のバリエーションでもあろう。『CURE』では、分裂する二つの私は、一人の役所広司によって演じられ、『ドッペルゲンガー』では、文字通り二つに分裂する。どちらも最終的に一つの私に統合されるのだが、『CURE』では、私の統合の瞬間に風景が歪み、亀裂がはしるのだが、『ドッペルゲンガー』ではその統合は予定調和的になされ、ハッピーエンドを迎える。『LOFT』になると、二つの私は男女に振り分けられ、その予定調和的統合を破綻させる。(ここで豊川と中谷の分裂は、観客であり、作り手としての監督でもある、映画的な欲望の主体としての黒沢氏と、映画作家として、観客を魅了し、出資者を説得し、批評家を惹き付けなければならない、対他的な「黒沢清」との分裂でもあろう。)
●ぼくは例えば、『チャーリーとチョコレート工場』で、最後にジョニー・デップがクリストファー・リーによって演じられる父親と和解するようなところで、しらけてしまう。(せめて、『ブロークン・フラワーズ』のジャームッシュくらいの批評性(嫌な言葉だけど)は必要ではないか。この程度に「知的」であることがつまらない、とも言えるけど。)黒沢清においてはおそらく、クリストファー・リー(によって代表されている「何か」)は「父」として和解出来るようななにかではなく、「呪い」でありまさに「掟=父」としてある。だからその関係は常によじれていて、単純ではなく(それは例えば『カリスマ』をみれば明らかだ)、しかし、そのよじれた所に、新たな何かが宿るための「余地」が生まれる。(「復讐したいんじゃない、復讐しなければいけないんだ」という、例によってあまりに「分りやすい」台詞が、『復讐・消えない傷跡』では哀川翔によって言われる。しかし、分りやすく、あっけなく口にされること(黒沢的な、ファンをしびれさせ、戸惑わせもする決め台詞たち)は、実はそれほど重要ではないのではないか、とも言えるのだが。実際この映画では、掟に従うことよりも、掟を失った迷走の方が重要なのだった。)例えば、冨永昌敬のような映画作家が新鮮なのは、そのような呪いや掟などとは無関係な場所からあらゆることが発想され、欲望されている(かのように見える)からだろう。しかしそれは一面で弱さでもあり、事の始めから寄る辺無い(依って立つ場所のない)迷走を強いられているということで、『パビリオン山椒魚』では、その弱さがはっきり露呈してしまっているのだけど。(勿論、冨永氏には冨永氏の、別の呪いがあり、掟があるわけだけだろうど、それは「共有されたもの」「継承されたもの」としてあるのではないだろう。)
●実は黒沢清においては、おそらく、「掟が見失われることで寄る辺なく漂いだす時間」というのもまた、七十年代アメリカ映画をレファランスとして持つ。しかしこれは、決して掟となることのない、あるいは呪いとして反復されることのない、そこからこぼれ落ちるものの不気味な「感触」の記憶としてあるのではないだろうか。
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