●たんに冗長でしかないお喋りが、脈略なくだらだらとつづいているだけのように思えたのだが、そのお喋りのなかの何気ないある部分が、不意に別のある部分と関係があることが発見され、そのことによって、そのお喋り全体の意味がまったく違ってみえてくる。ただ、いくつもの小ネタが羅列してあるだけのように思えたものが、不意に、あるネタと別のあるネタとが響き合うことで意味が生じ、ただの羅列に関係のネットワークが生まれる。その時、すべての小ネタに関係が生まれるわけではなく、ネットワークが生まれ、星座をかたちづくる要素となる小ネタと、そこからこぼれ落ちる小ネタとに分かれるのだが、しかし、こぼれ落ちた小ネタもまた、その時に見えた星座とはまた別の星座を、その後になってからかたちづくる要素となるかもしれず、つまりその時、あらゆる小ネタがそれぞれにそれ自身として、未だ位置づけられていないものとしてのポテンシャルを含んだ、開かれた、未だ何者でもなく、何者かに成りうるというような、不気味な感触をもつようになる。
●例えば、冨永昌敬の傑作『亀虫の兄弟』で起こっていることは、上記のようなことだろう。ここでは、冒頭から過剰なナレーションと畳み掛けるようなネタが重ねられるのだが、それは最初はただ「面白いこと」が羅列されているだけのように感じられる。「お母さん」という言葉の意味の二重性に関する主人公と「たかお」とのやり取り(「お母さん」というのはお前のお母さんのことなのか俺のお母さんのことなのか)もまた、そのようなネタの一つでしかないかのように進行して、時間のなかに埋没する。しかしある瞬間、そのやり取りこそが象徴的なネットワークを揺るがすものであったことが理解される。「お母さん」という言葉の意味の二重性は、目の前に居る幼なじみの不気味な男「たかお」が、姉の夫となり義理の兄へと変貌するという結果へと帰結するのだ。しかしだからと言って、目の前にいる「たかお」の持つ「たかお」という独自の感触は何もかわることはない。(このことの気持ち悪さ。)あるいは、主人公が帰宅した時の「妻の不在」という、これといって特筆すべきものとは思われない細部が、主人公が普段暮らしている部屋の空間的配置の組み替えという意外なところへ帰結する。この二つの、全く方向も次元も異なる「象徴的な配置の組み替え」の「動き」が、ランダムな細部の羅列と思われたもののなかから不意に浮かび上がってくるのだ。このような組み替えを生む細部同士の結びつきの唐突な鮮やかさと、しかしその急激な変化にも関わらず、冒頭から一貫して進行する淡々とした時間の感触とが、この作品では同時に進行している。(象徴的なものの配置の急激な組み替えと、細部=ネタが重層的に積み重ねられる圧縮した感触と、淡々と進行する時間、そのなかでの人物たちの独自のつかみ所のないゆるい感じとが、ごく短い上映時間しかもたないこの作品のなかで折り重ねられている。)
●『パビリオン山椒魚』においても、象徴的なネットワークの不意の組み替えは仕掛けられてはいる。冒頭ちかくで何気なく口にされる「妹の結婚の問題」が、なにごともなかったかのように放置された後、終末になって意外なかたちで回帰してくる、とか、第2ノウキョウの手先と思われる津田寛治が、オダギリジョーの仲間であるナントカ村の村人たちと実は繋がっていた、とか。しかしそれは、映画の流れのなかに、唐突にまったく別の流れが貫入してしまうというような、鮮やかな効果からはほど遠く、逆に、小ネタの羅列のなかに埋没してしまっている。その原因のひとつに、長編の時間を持たせるために設定された、人物たちの関係の配置が上手くいっていないことがあるように思う。
●例えば『オリエンテ・リング』では、一方で、依頼されて(既に死体となっていると思われる)ある芸能人の愛人を探す二人組が描かれ、同時に、実はその二人組のうちの一人と芸能人の愛人であった女性との間に関係があったという顛末が描かれる。一方が現在でもう一方が過去なのだが、過去が現在を説明するのではなく、二つの時間が平行して展開するといった方がよいだろう。過去のパートで、死んだと思っていた男性の無事がテレビのニュースで知らされるのと対応するように、現在のパートで探していた女性の死体が発見されたことがテレビのニュースで告げられる。依頼されて女性(の死体)を探すのが、一人は過去に女性と関係のあった男であり、もう一人は女性にも、この仕事そのものにもあまり興味のない男であることは、この作品の展開にとってとても重要であろう。『亀虫』のような、フリーなスタイルの作品とはことなり、一方に「依頼された捜索」もう一方に「男女の恋愛関係」という、定型的な物語の枠組みのなかで展開されるこの映画で、冨永的な細部の断片化(物語の本線を複数の方向へと解体しつつ広げて、バラバラになった断片同士に別の関係を成立させる)を可能にするためには、仕事に思い入れのある男に対して、やる気のない相方が本線とは「別の方向」を常に映画に導入しつづけることは大きい意味がある。対して『パビリオン山椒魚』では、常にオダギリジョーが中心に居続けるので(さらに、あまり話法を複雑にしてはいけないという制約もあったのかも知れないが)、「別の方向(拡散する動き)」を導入しようとすると、流れに強引な飛躍をさせる(レントゲン技師が、あやしいイタリア人モドキになったり、途中で急にナントカ村へと舞台を移したり)か、「悪ふざけ」を派手にしてゆくか、様々な変なキャラクターを付け加えてゆくか、ということになってしまい、それでは広がりがあまりつくれず、上手く機能しないように思える。