●引用。メモ。クロソウスキー『生きた貨幣』(兼子正勝・訳)より。
《まず最初に留意しておきたいのは、無償であること(情熱の自由な戯れとなって開花する共有化をもとにした)の公準は、ここでは情欲におけるひとつの根元的要素を捨象しているように思われることだ。つまり、抵抗を前提ともし要求しもする攻撃的要素---創造的労働にも情欲に関する利益にも同じように暗黙のうちに含まれる要素---、換言すれば、自由な戯れが成立しない場合にも、その進行をとめることができないような要素である。もっともフーリエはこの要素のことを知っていたばかりでなく、彼の構想のすべては、情熱の状態という、それ自体は遊戯的でないものを遊戯的に組織することで、攻撃的諸性向、とりわけ情欲の攻撃性を満足させることを旨としたのである。情欲は、その起源においてはけっして無償ではなく、それどころか評価や価値や価格せり上げを---したがって支払うべき対価を---前提とするのだが、情欲をそのようなものとしてつくりあげるという挑発や挑戦を、それではフーリエの構想はいかにして射程におさめることができるのか。その問いに対しては、攻撃性は戯れ=遊戯の素材を構成すると答えることができる。しかし遊戯は、さまざまな衝動を、そのシミュラークルにすぎない諸活動のかたちにまとめあげることで、情欲に内在する倒錯的基底から派生するものたちを、捕らえ、一定方向に導こうとするものなのだ。遊戯は、それが開花させようとするものから内容物を抜き去るか、あるいはこの倒錯的基底それ自体に触れないようにすることで、かろうじて開花にこぎつけるか、そのどちらかである。シミュラークルが存在するためには、後戻りできないような=決定的な基底が存在しなければならない。シミュラークルという現実は、倒錯的振る舞いの現実性を支配するファンタスムと不可分だからである。サドはこう断言する。ファンタスムは、生体組織とその反射反応のかずかずのなかで作用しているので、それを根絶やしにすることはできないと。フーリエはそれに異議をとなえる。ファンタスムはシミュラークルとして再生産=複製することができる。》
《ただし、この意味におけるシミュラークルは、カタルシスとは別物である。カタルシスとは、諸力の方向を散らせることでしかない。シミュラークルは、攻撃的実在の演出である遊戯の次元で、ファンタスムの実在を再生産=複製するものなのである。フーリエが掛け金を置くのは、自由そのものより、むしろ解放的な(=自由に由来する)かたちでの実在の創造行為、つまり遊戯のほうにである。それに対してサドはまさに、倒錯と両立可能な対象物、彼に遊戯の雰囲気を与えてくれるような対象物を創造することなど考えていない。というのも、規範の不屈性にくらべれば、倒錯そのものが遊戯だからである。サドにおける対象物の破壊が倒錯的情欲と不可分なのは、そのためである。死の本能と生の働きは切り離すことができないのだ。フーリエは諸衝動の柔軟性を、つまり可塑性を主張する。衝動が「生の」衝動であったり「死の」衝動であったりするのは、ファンタスムが固定しているか変化するかとの相関においてにすぎないというのである。そしてフーリエはまた、抵抗や攻撃性や、さらには暴力の体験は、遊戯をつき動かすバネになると繰り返し断言するのである。》
《サドならばここで結論を出すことなく、もう一度反論するだろう。つまり、ある倒錯や偏執の特異性がたんに表現されるためだけにも、ひとつの基体が必要であると。しかし、基体があなたの「遊戯」の規則を尊守すのであるとして、そのために基体がみずから感じることを「真剣に」擬装するためには、まさに基体を偏執狂あるいは倒錯者にする基体自身のファンタスムを擬装する以外のやり方が、あるいはそれよりよいやり方があるだろうか。真剣さとはこの場合、基体がみずからの衝動的なファンタスムに執着する激しさにあるのではなく、衝動が基体をファンタスムのなかに維持する際の---結局衝動は基体をむさぼり尽くしてみずから姿をあらわすのだが---あらがいがたい力にあるのである。この真剣さがなかったとしたら、本当の意味での情欲も存在しないだろう。情欲は、生の他の部分との対比において、「真剣さを犠牲にした」軽佻浮薄なものとなるために、まさに真剣さを考慮に入れなければならないのであって、その限りにおいてはじめて情欲は実感されるのである。》