●引用。メモ。ひきつづきクロソウスキー『生きた貨幣』(兼子正勝・訳)より。
《....利益はもはや浪費からもたらされるのではない---対象物の質は、いまやその対象物が何を与えてくれるかとの相関において、したがってまた享楽の時間との相関において、はじめて決まるのだ。それとはまったく逆に、対象物の量は、与えられる享楽の瞬間の質を保証する。このようにして、対象物を生産する行為そのものが、生産物を凌駕するのである。行為(生産者)が完璧なものになればなるほど、生産される個別物の重要さは減る。行為の質が、生産物を多量に生産するという能力によって、その生産物を荒廃させてしまうのだ。》
《サドの登場人物たちにとっては、ある場合には、行為の概念よりも、刑吏の行為がさまざまなかたちで襲いかかる同じ一人の犠牲者の質が重要であり、ある場合には、多量の犠牲者に対して無差別に行使される反復される同じ一つの行為が、行為の質を確立する。
このようにしてまず第一に、感覚とその対象物との関係が逆転されていることが露わになる。第一の場合には、対象が感覚の源泉であり、対象が、その置き換え不可能な性格によって、対象に対する人々の振舞いを決定し、対象を所有するためのさまざまな試みを誘発する。対象は、それが外見的には破壊されるにもかかわらず、その固有の価値のうちに維持されるのであり、それが一見身をゆだねるかに見える使用[の行為]を、いつも凌駕しているのである。
第二の場合には、対象は、情欲とその行為---一個の事物と同じようにどうでもよい対象との接触に際して、情欲をあらわにする行為---が行使されるための口実にすぎない。いつも同一であるような破壊行為の情欲が反復されうるためには、情欲の源泉として体験されている行為をどう使用するかが、対象より優位に立たなければならない。情欲は、対象のなかで力を使い果たすまではいたらないのである。》