●引用、メモ。樫村晴香「新しい時代」より
《言語を(あるいは宗教を、セックスを、芸術を、そして政治を)通じてなされる、間主観的な交通において、真にかけられているものは、時間のなかを展開することばの意識などでなく、限りない密度をもったことばや物の細片が、いくつも同時に立ち上がっては消えてゆく、無数の現在におけることばとイマージュの流れである。それは過去になされたリニアーな交通の、ひとつひとつの意味作用を通じて堆積された、ことばとイマージュの湖沼だが、しかしそこでは、ことばがまるでさざ波をたてる水のように、そしてまた手ですくい取られる水のように、今という時間のなかに、物質的広がりをもって存在している。
語られることばと、ことばからなる意識は、時間というただ一筋のシニフィアンの流れに閉じられるので、この面状の広がりをもつイマージュとことばのさざ波を、汲みつくすことはない。しかし人が、風にそよぐ樹々の葉を、苦渋に満ちた自らの経験を、そして抽象的な観念を語るとき、過去の意識が堆積させた、このことばのさざ波のそれぞれの感触は、語られることばのひとつひとつに結合して、意味というものを可能にする。意味は過去の物質状のことばと現在のことばとの、垂直的結合によって生み出される。そこでは共時的分節にもとづくシニフィアンの示差的体系(構造、関係性)は、あくまで二次的な手段である。》
《ただしヘーゲル弁証法を用いる。主体はみずからのことばによって、無時間的快楽を支配しつつすり落とすが、みずからのことばへの他者の答えを通じて、再度それを得ようとする。的確な他者の答えは時間のなかの交通の成功の向こう側で、私と他者の各々からなる、無時間的なことばと光の伏流の、鏡像的な共応作用を触知させる。情報の減衰した意識的交通で、真に重要なのは、減衰以前の水と光のゆき交わしであり、人は他者のその無意識に、自身の真実を予感しつつ写し取る。》
●今日の天気(06/10/16)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/tenki1016.html