風景

●おそらく、ぼくにとって「風景」というのは感情のことなのだと思う。感情というほどに強くはない、ある種の感触というべきか。それは、自分の感情を風景に投影するというよりも、風景によってある種の感情が生起するという度合いの方が高い。感情が外側からやってくるというか、感情が身体の外側に広がっているといった方がいいかも知れない。だから風景は必然的にいつもある種の叙情性を帯びる。しかしそれは微弱なものであり、言語として固定されない。例えばノスタルジックな風景と言ってしまうと、ノスタルジーという感情が先にあって、それが着地すべき適当な風景と重なりあわせられることになる。そうではなく、風景と感情は一体のものであり、今感じているこの感情を表現するのは、今見ている具体的なこの風景以外にはありえない。もちろんある一定の傾向というのはあり、ある類似した感情を表現する(喚起する)、類似した風景というのはあり得るだろう。
●最近ますます、ぼーっと散歩して、目からはいってくるもの、耳からはいってくるものを、ただひたすら浴びていることが好きで仕方なくなっている。もう、これさえ出来れば他はみんなどうでもいいんじゃないかとさえ思う。近所に、ちょっと噂になっている徘徊老人がいる。おばあさんなのだが、完璧にギャル風の服を着こなしている。(ピンクのジャージにデニムのミニスカート、その下にスパッツ、サンダルとか。薄くなった髪は、茶色に金のメッシュ、左右に二つの団子にしている、とか。)後ろからみると、ちょっと体型のくずれた女子高生に見えさえする。見かけるたびに違う服を着ていて、しかもいつもコーディネイトは完璧に思える。ぶつぶつと独り言を言いながら近所を徘徊しているのだが、最近ぼくは、このおばあさんとすれ違うことがやたらと多くなった。毎日のように、下手をすれば一日に何回も。つまりぼくも同じように徘徊しているということなのだった。
●ネットの古本屋で買った「ユリイカ」のクロソフスキー特集をパラパラみていたら、『生きた貨幣』などの翻訳をした兼子正勝の文章があった。そこには、ボードリヤールドゥルーズによって展開されるシミュラークルという概念がやや批判的に紹介されつつ、クロソフスキーが描くシミュラークルがそれといかに異なるのかということが書かれていた。で、その最後の部分にちらっと、クロソフスキーシミュラークルという概念はフーコードゥルーズとの関連からみられることが多いけど、実はサルトルの想像力やラカン想像界などとの関連でみられるべきではないか、ということが書いてあった。最後にちらっと触れたという感じで、具体的なことは何も書いてないのだけど。サルトルのことは知らないけど、ぼくはクロソウスキーを読んでいる時にいつもラカンのことが思い浮かんでいた(というか、クロソウスキーを読むことによってラカンをぐっと面白く感じるようになった)ので、この先こそが読みたいのに、と思った。
●今日の散歩(06/10/18)夕方(1)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sanpo1018.html
今日の散歩(06/1018)夕方(2)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sanpo10182.html


●おそらく、ぼくにとって「風景」というのは感情のことなのだと思う。感情というほどに強くはない、ある種の感触というべきか。それは、自分の感情を風景に投影するというよりも、風景によってある種の感情が生起するという度合いの方が高い。感情が外側からやってくるというか、感情が身体の外側に広がっているといった方がいいかも知れない。だから風景は必然的にいつもある種の叙情性を帯びる。しかしそれは微弱なものであり、言語として固定されない。例えばノスタルジックな風景と言ってしまうと、ノスタルジーという感情が先にあって、それが着地すべき適当な風景と重なりあわせられることになる。そうではなく、風景と感情は一体のものであり、今感じているこの感情を表現するのは、今見ている具体的なこの風景以外にはありえない。もちろんある一定の傾向というのはあり、ある類似した感情を表現する(喚起する)、類似した風景というのはあり得るだろう。
●最近ますます、ぼーっと散歩して、目からはいってくるもの、耳からはいってくるものを、ただひたすら浴びていることが好きで仕方なくなっている。もう、これさえ出来れば他はみんなどうでもいいんじゃないかとさえ思う。近所に、ちょっと噂になっている徘徊老人がいる。おばあさんなのだが、完璧にギャル風の服を着こなしている。(ピンクのジャージにデニムのミニスカート、その下にスパッツ、サンダルとか。薄くなった髪は、茶色に金のメッシュ、左右に二つの団子にしている、とか。)後ろからみると、ちょっと体型のくずれた女子高生に見えさえする。見かけるたびに違う服を着ていて、しかもいつもコーディネイトは完璧に思える。ぶつぶつと独り言を言いながら近所を徘徊しているのだが、最近ぼくは、このおばあさんとすれ違うことがやたらと多くなった。毎日のように、下手をすれば一日に何回も。つまりぼくも同じように徘徊しているということなのだった。
●ネットの古本屋で買った「ユリイカ」のクロソフスキー特集をパラパラみていたら、『生きた貨幣』などの翻訳をした兼子正勝の文章があった。そこには、ボードリヤールドゥルーズによって展開されるシミュラークルという概念がやや批判的に紹介されつつ、クロソフスキーが描くシミュラークルがそれといかに異なるのかということが書かれていた。で、その最後の部分にちらっと、クロソフスキーシミュラークルという概念はフーコードゥルーズとの関連からみられることが多いけど、実はサルトルの想像力やラカン想像界などとの関連でみられるべきではないか、ということが書いてあった。最後にちらっと触れたという感じで、具体的なことは何も書いてないのだけど。サルトルのことは知らないけど、ぼくはクロソウスキーを読んでいる時にいつもラカンのことが思い浮かんでいた(というか、クロソウスキーを読むことによってラカンをぐっと面白く感じるようになった)ので、この先こそが読みたいのに、と思った。
●今日の散歩(06/10/18)夕方(1)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sanpo1018.html
今日の散歩(06/1018)夕方(2)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sanpo10182.html