メルロ=ポンティとラカン

●最晩年のメルロ=ポンティラカンは、とても近いことを考えている。例えば、メルロ=ポンティの言う、「事実としての身体にも事実としての世界にもそれ固有なものとしては属さないような唯一の〈可視性〉、〈触れられうるものそれ自体〉としての〈肉〉」というのは、言い方は全くことなるが、ラカンが、サンボリックなものとして主体に最初に刻まれる「単一の徴である数的な〈一〉」というのは、ほぼ同じことを言っているようにみえる。(勿論、メルロ=ポンティはサンボリックな次元については何も問題にしないでそれを説明しようとしているけど。)あるいは、「見る」ことが根本的にナルシシズムにもとづいてあるということについてなど、ほぼ同じであるようにみえる。
●晩年のラカンにとって、精神分析は言語(サンボリック)において作動するというよりも、分析家の身体的現前(イマジネール)において作動するものとと捉えられていたようなのだ。
●引用、メモ。メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』「絡み合い--交叉配列」(滝裏静雄・木田元訳)より
《見るものと見えるものとのこの不思議な癒着ということで、正確なところ何を見いだしたことになるのか、われわれは自問してみるべきであろう。視覚ないし触覚が存在するのは、或る見えるものないし或る触れられうるものが、見えるもの全体やそれを部分として含んでいる触れられうるもの全体を振り返るときであり、あるいは或る見えるもの、ある触れられうるものが突然それらの全体に囲まれていることに気づいたり、また或る見えるものないし触れられうるものとそれら全体との間に、両者の交流によって、事実としての身体にも事実としての世界にもそれ固有なものとしては属さないような唯一の〈可視性〉、〈触れられうるものそれ自体〉が形成されるときである(その可視性と触れられうるもの自体が事実としての身体にも事実としての世界にも属さないというのは、ちょうど、互いに向かい合ったふたつの鏡の上には、本当の意味ではどちらの鏡面のもの---それぞれの像は互いに他方の写しなのだから---、したがって対をなし、しかもそれぞれの像よりももっと実在的な対をなすような枠つきの鏡像の限りない系列がうまれるようなものである)。そのようにして、見る者は自分の見ているものの中に取り込まれているのだから、彼の見ているものは相も変わらず自分自身だ、ということになる。すべての視覚には、根本的なナルシシズムがある。そして、その同じ理由によって、見る者は、自分の行使する視覚を物の側からも受けとるわけであり、多くの画家たちが言ったように、私は自分が物によって見つめられていると感じ、私の能動性は受動性と同一だということになる、---それがナルシシズムの第二の、しかもより深い意味なのだ。つまり、自分の住みついている身体の輪郭を、他人が見るように外部に見るのではなく、むしろとりわけ、外部によって見られ、外部のうちに存在し、外部に移住し、外の影によって魅惑され、捕らえられ、疎外されるということ、その結果、見る者と見えるものとが互いに逆転し、もはや誰が見、誰が見られているのか分らないようになる、ということなのである。われわれがさっき肉と呼んだのは、この〈可視性〉、この〈感覚的なもの自体〉の一般性、〈私自身〉のこの生得的無名性なのであり、そして知っての通り、伝統的哲学には、そのようなものを名指すための名前はないのである。》
●引用、メモ。フィリップ・ジュリアン『ラカンフロイトへの回帰』(向井雅明訳)より。
《この支えはひとつの現前を前提とする。身体的現前である。まさに分析経験はそれを通して可能になる。自らの現前によって分析者のイマジネールと彼の鏡像にわが身を貸与する役割を果たすのである。イマジネール(想像力ではない)がそこで愛の場所となる限りで、それは精神分析の道に特有で必要な支持点である。分析に愛が再び花開くことを期待出来るのは、愛の場所としてのイマジネールのこのような介在、仲介による。これを理解させるためにラカンはひとつの話を持ってくる。「ちょっとした話をしましょう。ピカソを愛しているオウムの話です。どうしてそれが分るのかというと、オウムが彼のシャツの襟と上着の折り返しを噛むやり方からです。このオウムは人間にとって本質的なもの、つまり服を愛しているのです。(...)オウムは服を着たピカソに同一化をしていました。すべての愛に関することはこれと同じです。」
事実、愛する者は相手のイメージに同一化し、ひとつのものになろうとする。こうして、愛する者はこのイメージにおいて愛されるものとしての自分を見るのだ。そこで彼はナルシシズム的相互性という、欲しかったものを手に入れたつもりになるのである。だが、もし服が、服を愛している者を愛しているとしても、やはり服である。以上でもないし....以下でもない。どちらも、イメージの彼方にあってイメージを成立させている身体をイメージが保証するということにおいて同等なのである。そしてラカンは結論する---「われわれが身体と呼ぶものは、私が対象aとよぶあの残滓である」。
実際、鏡像段階の新しい記述でみたように、イメージを支えるのはひとつの残滓、他者(A)の場において欠如しうる、イメージを対象aのの型を縁取って穿孔するものである。ここで逆転の時がやってくる。鏡像的他者の「愛し愛される」イメージがその姿で成り立つのはそこに欠けたもの、つまり欲望の原因かつ支持物のおかげであるということから、愛は愛のナルシシズムの彼方に導く道なのである。自己のイメージの衣服というこの存在の見せかけに、愛は呼びかけるのだ。それでいいのだ。どうしてこの愛の隷属に気を悪くしなければならないのだろう。なぜなら、「(a)とそれを包むものには親近性がある」のだから。それを包むものをラカンはi(a)と記している。
この問いは分析において返答を見いだす。分析家がこの見せかけの場所を占めるという条件のもとでだ。こう言うとすでに言いすぎであろう。むしろ、分析者が分析家をその位置に置き、据えるのであって、それに沿って分析家は同意を与え、自らをそこに適応させるに任すのである。
そこにおいて、分析者はこの見せかけの場所のイメージで何かをすることができるのだ。分析者はその上に自らのアクティング・アウトを集中し、このイメージを作業し、そこに対象を掘り下げ、i(a)とaの区分がなされるようにするのである。》