ビデオでフェリーニの『カサノバ』

●ビデオでフェリーニの『カサノバ』。この映画が日本で公開されたのは八十年代にはいってすぐで、ぼくが観たのはロードショーの時ではなくその少し後で、名画座で確か『女の都』と二本立てでだったと思うけど、どちらにしても八十年代の初頭で、ぼくは中学生で、ぼくにとってはじめてのフェリーニだった。それ以来観ていないので、ほぼ四半世紀ぶりに観たのだった。中学生のぼくにとって『カサノバ』を観るはかなりキツくて、三時間を超える映画のように感じられていたのだが、実際には二時間半くらいのものなのだった。観る前はどんな映画だったのかまったく憶えていないと思っていたのだが、観てみるとほとんどのシーンに確かな見覚えがあって、記憶のなかにあったあのシーンはこの映画だったのか、というシーンがいくつもあったので(後に何度も夢に出て来るようなシーンもあって)、中学生のぼくにとっての初フェリーニは、それなりに貴重な体験だったのだなあと思い知った。
この映画は豪華で騒々しくはあるけど基本的には単調な繰り返しによって出来ていて、というか、フェリーニの映画はだいたい豪華で騒々しくて単調なのだけど、この映画に関してはその単調さが面白いというか、単調さにこそ積極的な意味がある。(まあ、この単調さの面白さは中学生にはちょっと理解出来ないだろうと思う。)ヨーロッパ中を旅する主人公の経験する。一見猥雑にみえるが実は類型的な喧噪と、一見華々しくみえるけど実は単調な反復でしかない女性遍歴があり、その末に、理想の女性として機械人形を見いだすという話は、簡単に腑に落ちるようなものでありすぎるというか、分りやす過ぎるとは思うものの、それなりの密度をもちながらも、基本的には空虚な空騒ぎが延々とつづいた後に、それがあまりにも分りやす過ぎる帰結へと至ると、その結末のいかにもありがちな「薄さ」が、映画全体の「単調さ」と響きあって、そこに何とも言えないはかなさのような感情が浮上してくる。(それはその「空騒ぎ」に一定の密度と豪華さとがあるからだろう。)はかなさとか無常観という言葉はあまりに手垢がつきすぎているためにほとんど言葉としては意味がないようなものだが、二時間半にもわたる騒々しい空騒ぎの反復の後には、このような無意味な言葉にも本来は固有の意味があったのだということが実感される。(ただ、晩年の落ちぶれたカサノバを描く一連のシーンは蛇足で、まったく面白くないと思う。機械人形との性交シーンの後に、いきなりラストの夢を繋げて終わりで充分だったと思う。)
蓮實重彦がかつて、『カサノバ』の冒頭の、湖の底からクレーンで大きな像を引き上げるのに失敗するシーンを分析しつつ、フェリーニの機械はいつも失調することでしか自らを主張できない、ということを批判的に書いていた。(この日記を書くにあたって読み返したわけではないので、違っているかも。)例えばホークスの機械は、その機械が作動していることを意識させないくらいに見事に機能するが、フェリーニは、その機能の失調や、作動のぎこちなさによってようやく、その(ある種ロマンチックな、あるいはスペクタクルな)表現性を獲得出来るのだ、というようなことだったと思う。それは、柄谷行人が「感性とは古くなったテクノロジーのことだ」と言ったこととも近くて、古くなったテクノロジーの(現在からみた)機能の不十分さや違和感こそが、そこにノスタルジーのような感性を貼付けさせるということで、そのような「感性」に頼った作品は安易ではないかという否定的な言葉だ。それは確かにそうで、フェリーニはそのような感性と大げさなスペクタクルによってポピュラーな「世界の巨匠」であり得たのだと思うけど、ただ、『カサノバ』に関していえば、そのような機能の失調が簡単に分りやすい「感性」へと結びつくことがあまりなくて、むしろ全体としては感性(フェリーニ的表現性)を洗い流すような平板な時間が流れているように思う。機械人形のぎこちない動きも、その「ぎこちなさ」の表現性に依存するものではなくて(ぎこちなさによる表現性を強調するものではなくて)、むしろ今までカサノバが関係していた他の女性たちとほとんど同一であるような感触を(その動きの単純さによって)強調するものであるように思われる。
この映画を観ていて一番印象的だったのは、ドイツのどこだかの街のオペラ座で年老いた母親と出会い、お前は母親にずっと手紙も寄越さないで、みたいに責められて、今度ぜひお屋敷に立ち寄ります、みたいなことを言って、足の悪い母親を馬車までおぶって送り、その馬車が遠ざかるのを見ながら、住所を聞き忘れたな、と呟くところで、こういう細かい齟齬や失調こそが、この映画を支えているように思う。