東京国立博物館で「仏像--一木にこめられた祈り」

●上野の東京国立博物館で「仏像--一木にこめられた祈り」。期待していたほど凄いということはなかったけど、面白かった。それが、千年以上前につくられた、ということと、今、目の前にある、ということ。それを歴史的な資料や文化財としてみるならば、千年以上前に作られたことが重要なのだろうけど、ぼくにとっては、それが今、目の前にあるということの方が重要であるように思われる。会場には、仏像に向かって手を合わせている人がちらほらいたけど、その人たちに手を合わせさせている力は、その像が、今ここで示しているあらわれによるのか、それともその像の歴史的来歴の由緒正しさなのか。いや、結局は人の手によってつくられたものでしかない仏像が信仰の対象になることなどないはずで、人が祈るのはその像そのものではなくて、その向こうにある何ものか、それによって「あらわ」にされている何ものかに対してであるはずで、つまりその像が今、ここで示している「あらわれ」に対して手を合わせているのだろう。だが、その人が目にしている「あらわれ」を生んでいるのは、仏像の造形的な力なのか、それともその人の信仰心なのか。まあ、もともとこの二つのものを簡単に分けることは出来ないだろう。ぼく自身は信仰心をもたないが、しかし仏像を「作品」として尊重し、それに対する敬意のようなものがはじめにあって、つまりそこにはこちらが本気でじっくりと見るに値する何ものかが(つまり自分よりも大きな何ものかが)含まれているはずだという期待があり、その期待によってぼくの「見る」モードが繊細な表情までも見逃すまいという体勢になっているからこそ、そこから(その向こう側に)何ものかを見いだすことが出来るようになる。これは別に仏像などに限ったことではなく、芸術や作品一般に対しても言えることで、はじめから適当に楽しめればいいやという思いで向かう作品からは、よくてもその程度の楽しみしか返してもらえない。
●会場はかなり混んでいたし、許可されてはいないのだろうと思うけど、仏像に限らず古典的な彫刻を観ているといつも、それを描いてみたい、と強く思う。それは作品として描く、というよりも、自分が「見たもの」を憶えておくために、メモのように、書き留めておきたい、という感じなのだ。「見たもの」は、見えるものとしてしかメモれない。この曲線のこの感じ、とか、この曲線とこの曲線のこの関係、みたいなのを、書き留めておきたい感じになる。それを何かに利用しようとかいうのでもないし、石膏デッサンのような技術的な修練というのでもなく、ただ目で見るだけでなく、手でも見てみたい、という感じ。
●仏像の顔って何だろうか、と、ちらっと思った。我々は近代以降の人間だから人の顔から多くを読み取る癖がついてしまっているし、図版などの写真では顔だけ切り取られてアップになっていたりするから、その無表情な表情に何かしらの意味や含みを読み取ってしまうけど、実際に仏像を見ると、顔はそれほど重要な要素とは思えない。例えば、マティスの多くの人物画において顔があまり重要ではないのと同じように、仏像においてもあまり顔は重要じゃないように思える。それはあくまで像全体のなかでの「顔の部分」としてあるように思うのだ。