富樫森の『ごめん』と「日本映画」

●富樫森の『ごめん』をDVDで観ていた。『天使の卵』を富樫森が監督しているらしいと知ったからだ。小説は読んでないけど、あらすじだけをみる限りではぼくには『天使の卵』ような話はただ「きもちわるい」としか思えないのだけど、でも、『鉄人28号』よりはまだ、この監督の手腕を発揮する余地のある「企画」なのだろうとは思う。(でも、映画館にはきっと、カップルと若い女の子しかいないのだろうと思うと、ちょっと行きづらい。)しかしこの監督は、これからもずっと「こういうところ」でやっていくつもりなのだろうか、と、ちょっと思ってしまう。
富樫森の映画は確かに面白いのだけど、やはりどうしても古い感じがする。古いというのは、今はもはやなくなってしまった「何か」に守られている(守られようとしている)という感じのことだ。今はもうない何かとは、端的に言えば「日本映画」という体制のことで、相米慎二の助監督だったという富樫氏は、おそらく「日本映画」のなかで育った最後の世代なのだろう。例えばピンク映画というのは、一定量以上のセックスシーンがあれば、あとはそれなりの(相対的なものではあっても)内容的な自由が確保される。ある一定数の固定した観客があり、その観客に向けてつくられる一定数の作品が常にあることでプログラムピクチャーが成立し、その、常に「ある一定数の作品」を生産しなければならない(自分の会社の持っている小屋のスケジュールを空けるわけにはいかない)という体制の余裕や隙間に、「日本映画」の「作家性」が開かれる余地があった。つまり基本的に量産体制という土壌があって、その余剰部分に作家性が生まれる。(作家であろうと職人であろうと、その量産体制があってはじめて成立する。)実質的には、七十年代や八十年代には、そのような体制の内実はほとんどないも同然だったのかも知れないけど、一度成立した体制はそれ自身を維持するためだけに作動するので、それがぎりぎり作動していたかのようにして、皆振る舞っていた。八十年代に、日本のすべてのメジャーな映画会社と仕事をした相米慎二は、「日本映画」の最後の巨匠と言えるだろう。
「日本映画」は、日本国内(あるいは「日本映画界」)だけで完結している。それは、日本映画の質が低いから「世界」で通用しないということではない。(実際、「世界に通用する」質の高い作品はいくらでもあるだろう。)そうではなくて、外からの視線(があり得るということ)など全く意識することなく、国内の、あるいは業界内の視線(価値観や作法)だけによって、「日本映画」として独立して、生産も消費も批評までもすべてがまわっていた、まかなわれていた、ということだ。これはあくまでファンとして外から見ていた想像でしかないのだけど、(前衛という概念が完全に死につつあった)八十年代に仕事をしていた野心的な映画作家の多くは、「日本映画」の枠内でアイドル映画などの企画ものをこなしつつ、そのなかで自分の作家性をなんとか発揮したいと考えていたのだと思う。(その拠り所として、相米慎二が『セーラー服と機関銃』を、作品としても、興行的にも、共に成功させた、ということがあったのだと思う。)というか、当時のあの状況のなかではまったく出口なしで、それ以外の道など想像もできなかったのだと思う。(海外からの評価によってインデペンデントな作家として立つ、ということを実践していたのは大島渚くらいだろう。)しかし、現在は良くも悪くもそういう状況にはない。日本映画の体制は完全に崩れ、それによって黒沢清青山真治を始めとする多数の「世界的な作家」が生まれ(それはつまり、映画をつくる人が強制的に「作家」であるしかなくなってしまったということだろう)、一方で、量産体制が支えていたプログラムピクチャーの豊かさのようなものは(ハリウッド以外では)完全に失われた。
富樫森が(もはやない)「日本映画」に守られている、というのはつまり、日本映画が体制として作動していた頃に、多くの人がそこで「前提にしていたもの」を、そのまま前提にしてしまっている、という感じのことだ。例えば、まったく何の戦略もなく、勝算があるとは思えない『鉄人28号』をつくってしまったりするところ。なぜ、『非-バランス』や『ごめん』の富樫森が『鉄人28号』をつくらなければならないのか誰も説明できないだろうに、なぜかそういうことになっている。プロとしての注文仕事だというなら、あまりにも出来がひどすぎるだろう。『鉄人28号』のなかにも、富樫森ならではの映画としてとても充実したシーンはあるのだけど(そこを「批評」によってフレームアップさせることも可能なのだろうけど)、でも、何故それが『鉄人28号』としてなされなければならないのかが分らない(つまり、そこのところを「考える」ことをサボっているとしか思えない)。『鉄人28号』という「作品」(必ずしも「商品」ということではない)が、どのような点で成立し得るかをシビアに考える前に、日本映画のなかの、マンガ原作のロボットものみたいな、既に成立しているジャンルのようなものに、あるいは業界内の流れのようなものに、寄りかかってしまう、と言うのか。多くの映画監督が、自らを「作家」とすることに抵抗があるという感じを持つのは分らないこともない。でもその「感じ」こそが、プログラムピクチャーが成立していた時代の「余裕」の産物(もはや無い贅沢品)なのではないだろうか。もはや誰も「日本映画」に守ってもらうことが出来ない以上、インデペンデントに、「作家」として一人で立つしかないのではないかと思う。『ごめん』がとても充実した映画であることはおそらく間違いはないけど、どこかしらじらしい感じが付きまとってしまうのは、自身の立っている場所(この映画自身を成立させている場所)に関する認識の問題でもあるように思う。