小津安二郎『宗方姉妹』

●ここ最近、夜中の午前一時をまわったくらい、あたりが静かに寝静まった頃から、DVDかビデオで映画を一本観てから寝るのが習慣のようになってしまっている。今日は小津安二郎『宗方姉妹』をDVDで観た。
●小津は、一時あまりにもハマり過ぎていたため、改めて観直そうという気になかなかならない。それでも、『麦秋』や『秋日和』などは何年かに一度は必ず観るのだけど、『宗方姉妹』(50)は、『晩春』(49)と『麦秋』(51)の間に撮られた、小津の絶頂期の作品にも関わらず、何故か妙に印象が薄い。吉田喜重の『小津安二郎の反映画』でも全く触れられていなかったし、蓮實重彦の『監督 小津安二郎』でも、確かあまり多くは触れられていなかったと思う。
しかし改めて観てみると凄い映画だった。この映画での高峰秀子の演技には賛否両論あるだろうけど、ぼくはこれは凄く好きだし、小津は、いつもとは違う新東宝という場所で、普段では出来ない「これ」をこそやりたかったのではないかと思った。(この映画の高峰秀子があったからこそ、『秋日和』や『秋刀魚の味』の岡田茉莉子があり得たのではないだろうか。)確かに、田中絹代高峰秀子の姉妹は、原節子三宅邦子の(義理の)姉妹に比べれば視覚的には地味だけど、そのかわり高峰秀子には原節子にはない軽やかさがあって、若さにまかせて向こう見ずに突っ走る感じがとてもいいと思う。この映画は基本的にかなり陰惨な中年たちの映画で、田中絹代山村聰上原謙も皆、それぞれに訳ありで、過去からのしがらみのなかで身動きができなくなっている。それはもう長い時間のなかで硬直してしまった何かで、若い高峰秀子にはどうすることも出来ず、理解することもできなくて、そのなかで苛立ちを抱きながらも、快活さを失わない調子で、硬直した中年たちのなかを駆け抜けてゆくのだった。
この映画での山村聰のダメ男っぷりの壮絶さは誰でも指摘するだろうけど(何しろこの男は、小津の映画においては独身の女性のための聖域であるはずの「宙に浮いた二階の部屋」を堂々と占有し、昼間から何するでもなく猫と戯れ、本来その場所にいるべき高峰秀子が通りかかると、不機嫌そうに「誰だ」と叫んだりする)、もう一方にいる上原謙の、最後まで全く乱れることのない「善人面」も相当に凄みがある。どんな時にも一瞬も「善人面」が揺らぐことがないということは、それだけガードが堅いということで、経済的には成功して幸せにみえる上原謙をそこまで頑にしてしまった「過去」に、彼もまたがっちりと捉えられつづけているということなのだ。そのなかにいてただ田中絹代だけは、あらゆる運命を受動的に受け入れ、自らの欲望を諦めることによって、ただ一人過去から自由なように見えもする。(田中絹代の顔が歪むのは、ただ一度、夫に離婚を申し出られた時だけなのだ。田中絹代はおそらく、その時にだけ「納得出来ない」と感じたのだろう。)しかし、そのような姉の受動的な満足を、若い高峰秀子は決して理解できないだろう。そして、この凝り固まったおっさん、おばさんたちをどうにかしようと、彼女は走り回る。しかし結局彼女の行動は道化のように空回りして、有効な効果を得ず、山村聰は自滅するし、田中絹代上原謙が結ばれることもない。結局のところ誰も過去から逃れられはしないのだが、でもこれは悲劇というわけでもないだろう。山村聰は、田中絹代に離婚を切り出す直前に、バーで高峰秀子と二人で飲みながら、何もしないで酒ばかり飲んでいるのも、これもまたなかなか面白いものなんだ、この世の中には実にいろんな面白さがある、と口にしていた。これがあながちダメ男の虚勢だとばかりは言い切れない、真実であるかのように思えてしまうほどに、山村聰の退廃には凄みが宿っていた。それに、夫が死んでしまったことで、ずっと「夫の目」を感じていて、だから上原謙と結ばれるわけにはいかない、と口にする田中絹代は、死んだ夫に縛られているわけだけど、もしかすると、既に死んでしまった「夫の目」を感じつつ、その「夫の目」と共に生きるということこそ、実は彼女の最も望んでいた夫婦のかたちではなかったか、とも思えるのだ。これは実に重たくて苛烈な映画で、でもそれを、高峰秀子の軽やかさが救ってもいる。
●今日の天気(06/11/11)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/tenki1111.html