●昨日の日記では、サン・ロレンツォ教会の旧聖具室の監視員の話からはじめて、同じくブルネレスキが設計した、サンタ・クローチェ教会にあるパッツィ家礼拝堂のことを書こうと思って書きはじめたのだが、話が全然別の方向へ行ってしまったのだった。しかし改めて考えてみると、パッツィ家礼拝堂についてどんなことを書けばよいのかわからない。今回のフィレンツェ滞在で、一つの作品の前(というか、この場合「中」なのだが)でもっとも長い時間を過ごしたのがブルネレスキ設計のこのパッツィ家礼拝堂で、二度訪れて、合計すると二時間以上、この、きわめて小さくてシンプルな礼拝堂のなかにいた。しかし、二時間以上もの時間、何をしていたのか、何を見ていたのかほとんど憶えていないくらいで(信仰はないので、祈っていたわけではない)、ただひたすらその美しさに見とれ、呆然としていた。フィレンツェには歴史的な建造物がそこここにあり、ブルネレスキが設計したものも他にいつくか見た(サント・スピリト教会には入れなかったけど)が、ここの美しさはぼくにとって特別なものに見えた。パッツィ家礼拝堂は、例えばやたらと豪華ででかいサン・ロレンツォ教会のメディチ家礼拝堂とはまったく異なり、小降りで、シンブルなつくりで(とはいっても、この教会の礼拝堂のなかでは一番大きいのだけど)、白い壁と、灰色の柱(フレーム)による、円と直線との簡潔な幾何学的構成だけでほとんどの部分がかたちづくられていて、図像は、祭壇の後ろにあるきわめて地味なステンドグラス風のものと、壁面上部にある、テラコッタの(智天使などの)レリーフのみで、入ってすぐの印象は、とてもそっけない。にも関わらず、すぐに、その簡潔な美しさに捉えられ、そこから出られなくなってしまう。この美しさを、どのように形容し、描写したらよいのか、今はちょっと思いつかない。色彩も図像もギリギリにまで抑制されている幾何学的な構成によって出来ているのに、こけおどしの豪華さとは異なる、抑制されることによってはじめて生まれる豊かさのようなものの倍音がビンビンに響いている、と言えばよいのだろうか。例えば、サン・ロレンツォ教会のミケランジェロが設計した聖具室もまた、(ミケランジェロによる彫刻以外は)きわめて抑制された幾何学的な構成によってつくられているのだけど、ミケランジェロの設計が、張りつめたような硬質な緊張をみなぎらせているのに対し、ブルネレスキの設計は、幾何学的で抑制されているにも関わらずむしろ「柔らかさ」や「豊かさ」の印象を強く感じさせる。これは、ひとつひとつの形態や質感(細部)がそれ自体としてあるのではなく、常に別の形態や質感との響き合いのなかにあり(あるいは、その響き合いを常に感じさせ)、その響き合いこそが、とても複雑に組織されているからなのだと思う。具体的な(「感覚」を通して感じられる)スケール感、物質感と、そこから導かれる、抽象的な比例関係によって現れる、それを超え出て行く「より大きな(別種の)感覚」との、なんとも幸福な折り重なりというのか。ブルネレスキの建築こそが、ルネサンスの精神を体現している、というような言い方も、この礼拝堂をみることによって、すんなりと納得がいく。
(余談だけど、ミケランジェロの作品には、彫刻にも建築にも絵画にも、「色」をあまり感じない。勿論、絵画では実際に多様な色彩を用いているのだけど、それは「色」そのものとして輝いて(現れて)いない。それは欠点ということではなく、ミケランジェロ的な「硬質さ」というひとつの特質であるように思う。対して、ブルネレスキの建築では、実際にはきわめて抑制された色彩しか用いられていないにも関わらず、「色(の現れ)」をすごく感じる。でも、この「色」の感じが、実際にはどこまでブルネレスキのプランによるものなのかは、建築に詳しくないので何とも言えないけど。)
響き合いといえば、この礼拝堂のなかでは、信じられないくらい美しく音が響く。フィレンツェの街は、全体的にどこでも音が美しいし、ことに教会のなかはエコーのような音響効果を狙って設計されているようなのだけど、そのなかでもこのパッツィ家礼拝堂では特に音の響きが美しいのだった。少人数の観光客のささやくような小声も、観光ガイドが客に向かって説明する声も、アメリカ人の大人数の団体客がドカドカと雪崩れ込んで来たときの喧噪も、そして客が誰もいなくなってぼく一人になって静かになった時に外から微かに入ってくる音も、とにかくどんな音でも、クリアーなのに非現実的な感じで、うっとりするくらいに美しく響くのだった。
写真を撮ることも出来たのだけど、しかし、この美しさはどういうフレームで切り取っても表しようがないし、そもそも圧倒的な美しさに恍惚となってしてしまって、写真を撮ろうと言う気にまったくならなかった。ウェブ上で写真を探したのだけど、こういうの(http://www.yamada-kj.com/renaissance/re_i/rei_1420/1429_bre.html)しか見つからなかった。写真で見るとちょっとゴテゴテした感じに見えるかもしれないけど、もっとすっきりした印象なのだった。
●今日発売の「風の旅人」(vol.23)http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/index.htmlに、「キャラクターの向こう側にあるものへ」という文章を書いています。