どうやったって部屋が片付かないのは...

●どうやったって部屋が片付かないのは、あきらかに部屋の広さ(狭さ)に対して物が多過ぎるからで、その「物」とは、まず(1)本であり、(2)ビデオやDVDやCDであり、(3)自分の作品である。まあ、(3)が一番目にこないというのが画家としては情けないのだけど。(部屋=アトリエにあるのはここ5、6年の作品で、それ以前の作品は実家の一部屋と、さらに庭に建てられたプレハブに収納されている。付け加えれば、発表される作品は制作された作品の三分の一か四分の一くらいで、「感じ」を掴むための習作やエスキースを含めると、未発表の作品はもっと多い。でもぼくは決して多作な方ではなくむしろ逆で、最近増々寡作の傾向にあるけど。)これは、多くの「オタク的傾向」のある人の共通の悩みではあるだろうけど、「本」はもう凄い事になっている。引っ越しをした時、持っていた本の三分の一以上を捨てて、天井まで届きそうな背の高い本棚をいくつも購入して壁面に並べ、ここに入り切れない本はもう持たない、ここから溢れたら、一冊買ったら一冊捨てる、と心に誓ったのだが、今は本棚から溢れ出た本が無数の段ボール箱につめられて、無造作に積み重ねられてスペースを占領し、本棚に収納されている分よりも多いくらいになっている。最近はこれが制作をするアトリエのスペースまで浸食してきていて、かなりヤバい。これを解消するのはもっと広い部屋に引っ越すか、多くの本をバッサリ捨てるかどちらかしかないのだが、前者は経済的に無理だし、本を捨ててしまうこともなかなか踏ん切れない。本を捨てられないのは、不意に(想定外に)参照する必要が出来たり、読み返したくなったりするからで、実際、あの本は確か持っていたはずと思って探してもなくて、そういえば引っ越しの時にこれを読むことはもうないだろうと判断して捨ててしまったのだったと思い当たって後悔することがしばしばある。ぼくは基本的にコレクター的な欲望がまったく希薄で、ある著述家を網羅しようとか、何かを体系的に収集しようなどとは思わず、基本的にすべて「つまみ食い」なのだけど、このつまみ食いというのが思いのほか効率が悪くて、埃のようなものが(贅肉のようなものが)どんどん蓄積されてしまう。
本を持たないで生活できたら、どんにシンプルで気持ちがいいことだろうといつも思う。話は飛ぶけど、昔の友人で、かなりサイズの大きい作品(絵画)をつくる人が、もう、自分の作品を持ち続けていることが耐え難くなった、と言って、作品を制作することをやめてしまったことがあった。(美術作品というのは小説とかと違って「物」で、保存にすごく場所をとるのだ。)ぼくはその人の作品が好きだったので、とても残念に思ったが、その感じはリアルによく分った。自分のつくった作品を「持ちつづける」ことは、たんに物理的なあれこれの問題をこえて、なんというかとても「重い」ことだ。否定的な言い方をあえてすると(つまりネガティブな気分の時にはこう思ってしまうのだが)、自分の過去の失態を物質化して常に自分のまわりに纏いつかせているようなうっとうしさがある。(制作や発表をしなくなると、自然とその人と合う事もなくなって、今、どこで何をしているのかは知らない。)
大竹伸朗のあのとんでもない展覧会を観て凄いと思うのは、あの膨大な作品のかなりの部分が「作家蔵」であるはずだ、ということだ。(いかに「大竹伸朗」とはいえ、あれだけの作品がどんどん売れるほど「現代美術」の需要は多くない。あれだけの量の作品を「集める」ことが出来たのは、その多くを作家自身が持っていたからだと思う。まあ、今回の展覧会をきっかけに多くのものが「売れる」かもしれないけど。)多くの人が、あれだけの作品を次々とつくってしまうことに驚くけど、基本的に、作家になるような人なら、あれくらいの表出的なパワーはもっているはずだ。(まあ、それにしても凄いとは思うけど。)でも、本当に凄いのは、あれだけの物をやりっぱなしにしないで、長い時間、自分で「持ちつづける」ことに「留まりつづける(持ちこたえつづける)」ということの方で、その持久的な力に関しては掛け値なしに素晴らしいと思う。(それぞれの作品の質についての判断はまた別だけど。)あれだけのものを自分で持っているということは、自分の身体のまわりにいちいちあの雑多な重いものを纏っているようなもので、移動するたびにその重たいものをガラガラと引きずって動くような感じではないだろうか。やりっぱなしにするだけなら、作品なんていくらでも作れる。そうではなくて、自分が作ってしまったものを引き受けて、それを保ちつづけることは、そう簡単ではない。(それが必ずしも「素晴らしいこと」なのかは分らないけど、つまりあらゆることに執着しない軽いフットワークこそ素晴らしいのではないかと思うこともあるけど、ただ、そういう「重たい」ものを引き受けることによってしか可能でない「密度」というものがあるとは思うのだ。)