矢内原美邦『さよなら』

三軒茶屋のシアター・トラムで、矢内原美邦『さよなら』。ライブとかパフォーマンスとかが嫌いなのに観に行ったのは、『エンジョイ』が面白かったことの勢い。『エンジョイ』を観た時にもらったいろんなチラシのなかで、「矢内原美邦」とか「ニブロール」とかいう名前には何となく聞き覚えがあった、という以上の理由も予備知識もなく、思いつきで観に行くことにした。
はじまると、ダンサーというイメージとはことなる、まるっこい感じで、幼児体型といえば言い過ぎだが、手足もそれほど長いとも思えない女性が、『ねらわれた学園』の最後の方のネグリジェ姿の薬師丸ひろ子みたいな衣装(白くて、軽くて、ふわっとしていて、襞とかレースとかが過剰についている、長いワンピース)を着て出て来て、踊りだす。その時は、まさに薬師丸ひろ子を連想させるような、いかにも「昭和り若い女性」みたいなまるっこい体型と感じられたのだが、終演後のトークで出てきた矢内原氏は、特にそういう感じでもなく、このイメージは衣装によるところが大きいのかもしれない。ダンス自体も、この衣装と同じように、クリシェとしての「女の子」、あるいは幻想(ここで「幻想」というのは、単純に「現実」と対立するようなもののことではなくて、本人のアイデンティティのみならず、身体的な所作まで律しているようなもののことだ)としての「女の子」というイメージを素材にし、そこに積極的に重なりながらも、そこからスルッと抜け出す瞬間もある、というような感じにみえた。(ただ、終演後のトークによると、この人は普段はこのような作風ではなく、この「女の子」的な感じは、衣装との関係から生まれたところが゜大きいらしい。)終盤で、白いヘッドホンをつけて、椅子の上に立ち、手話みたいな仕草も含めつつ踊られるパートでは、通俗的クリシェと、ダンス的な身体の充実(という言い方で良いのか?)との重なり合いが、見事になされていたように思えた。
全体の構成としては、一方に矢内原氏による独舞があり、もう一方に複数のダンサーによるパートがあって、その両者が、ある時はどちらか一方が前に出て、またある時はパラレルに進行し、時に交錯する。という感じだった。(複数のダンサーによるパートが主に外向的で拡散的なのに対し、矢内原氏のパートはほとんど常に、内向的で閉鎖的な感じでもあった。)そして、複数のダンサーによるパートは、多分に演劇的に要素が強く出ていて、ぼくにはそれがとても気になった。この作品で一番受け入れがたく感じたのは、(台詞の発声なども含めて)「言葉」の使い方があまりに無防備というか、無自覚に感じられたことだった。あまりにも「それらしい」言葉が、「それらしく」断片化され、「それらしく」コラージュされていて、何というか、とても「恥ずかしい」感じがしてしまった。中原中也やケルアックやジェネから引用されたらしいそれらの言葉やその組み合わせは、あまりにもベタに「文学的」で「アート的」で、その発声や語られ方も凄くくさく「演劇的」で、観客席にいていたたまれない感じになってしまう。(この感じがどうしても受け入れられないから、ぼくは演劇が嫌いなのだけど。)
あと、映像とか音楽とかの使い方にも、ちょっと安易過ぎるように思われる場面が多かった。というか、そんな「演出効果」みたいので舞台を支えてしまうことに、何故疑問を感じないのかがぼくには分らない。(「演出効果」によって作品を支えることに対する大きな抵抗をぼくが持つのは、たんにぼくが「近代美術」的なディシプリンに支配されてしまっているからなのだろうか?、と揺らいでしまうほどに、この作品に限らず、最近の作品では、「演出効果」に臆面もなくだらっと頼り切っているようなものを多くみかけるのだが。)プロジェクターに様々な断片的な風景が映し出され(アニメ作品などでも多様される、このような断片的風景による叙情化の効果は、いまや表現技法の最低のクリシェと化してしまっているとぼくは思う)、照明が黄昏れた感じになって、そこに叙情的な音楽がかかり、ダンサーたちがシルエットのようになって、バイバイ、さよーなら、みたいな仕草をするシーンなど、あまりに臆面もなく通俗的なので逆に驚いた。終演後のトークで矢内原氏は、いままで人間として向かい合っていた人が、ふと、風景のように遠くなってゆく瞬間があって、その距離の変化が面白いし、それに感動する、というようなことを言っていた。そして、ぼくもそれはとても面白いと思う。しかし、その感覚を「表現する」のは、あくまで舞台上の身体とその所作によってでなくては面白くないはずで、それをあんなに安易に(映像と音楽に頼り切った)「効果」によって実現するのでは、全然ダメなのではないだろうか。
この作品で、衣装と身体との関係については、とても納得出来たし、面白いと思うのだが、ダンサーと、映像や音楽、そして言葉との関係については、まったく納得できない部分が多かった。『さよなら』を、作品として受け入れることはぼくには出来ないけど、『エンジョイ』、『さよなら』と観てみて、人間がその身体そのものを「表現媒体」とする表現の面白さのようなものを、ちょっとだけ掴めたようにも思う。