アルノー・デプレシャン『キングス&クイーン』をDVDで

アルノー・デプレシャンキングス&クイーン』をDVDで。試写で観て、映画館で観てもいるから、観るのは三回目。観るたびに、様々な細かい仕掛けが発見され、一体デプレシャンはこの一本の映画のなかでどれだけのことをやってるんだという驚きを新たにする。でもそれは、いわゆる「情報を詰め込んで圧縮する」というのとはかなり違う。むしろ、細部まで考え抜かれた様々な要素を投入しながらも、それをどのようにして「圧縮」とはちがうやり方で共存させるか、ということが試みられているように思う。圧縮がもたらす密度や熱さをすり抜けつつ、わかりやすい密度とは別種の密度をつくろうとしている、というのか。あるフレームに、そこに入りきれないほどの量のフレーズを投入しつつも、ひとつひとつのフレーズが、緩いフレームのなかに置かれた時のようにそれ自身の潜在的な力を失わないように配置する、とも言い換えられる。
おそらくデプレシャンはテキストから出発する。それ自身しっかりと構築された、そして様々な潜在性を含んだテキストをつくりあげることが、まず、作業の第一段階にあるのだろう。そのテキストは、映画のためのものというより、テキストそのものとして自律したものとしてつくられると思われる。そしてそのテキストから、考えられるかぎりの様々な可能性を引き出すことが、準備期間や撮影、そして編集の間に何度も試みられるのだろう。デプレシャンの映画においては、どのシーンにおいても、そこに常に多義的な意味に開かれていることが要請されていて、そのために、画面として、シーンとして「弱い」ものになってしまうことも厭わない。この点が、デプレシャンの最も特異な点であるように思われる。シーンとして、映画として、作品として「強い」ものであるよりも、常に意味が多義的に開かれていることの方が優先されているのだ。(このような言い方はデプレシャン自身の発言とは食い違うのだが)おそらくデプレシャンは「映画」など信じていない。言い換えるなら、デプレシャンにとって映画は、世界を観測するための観照点(として利用すべきもの)なのであって、(何か特権的な「良いもの」という幻想を含む)「作品」ではないのだろう。(いわゆる「映画好き」の人がデプレシャンをいまひとつ「気に入らない」と感じているのは、このためだろうと思われる。)おそらく、デプレシャンが『プリティー・ウーマン』を優れた映画だという時に言っていることは、自分の視線だけでは決して知ることの出来ない、ある世界への視点を(その視点から導かれるある「思考」を)、『プリティー・ウーマン』を観ることによって得ることが出来る、ということなのだ。それは、他人の行った実験の過程をみつめる科学者のような眼差しなのかもしれない。
『そして僕は恋をする』についてのインタビューで、これは自分のセックスライフについての、きわめてプライベートなフィルムだということを言っていた。「きわめてプライベート」なフィルムを、あのような異様な構築物としてしまうところが、デプレシャンの特異性で、例えば同じように「きわめてプライベートなフィルム」を撮り続けるガレルなどとはまったく異なるところだろう。ガレルにとっては、取り替え不能な自身の固有性こそが映画をつくる根拠となり、それが映画に宿ることこそが重要なのだが、おそらくデプレシャンにとっては、自らのもっとも内密的な部分が、それを映画とすることで解体されることに意味を見いだしているかのようだ。自身の内密的な部分を素材としながら、そこに潜む様々な多義性を引き出し、展開することで、取り替え不可能な「私」とはまったく別物がたちあがる。しかしそれはたんに「私の解体」なのではなく、そこにこそ「私の潜在性」がたちあがることが目指されていると思われる。沢山の映画を観て、自分でも映画をつくるという過程こそが、その潜在的なものを引き出すことを可能にする。
キングス&クイーン』を観ていると、デプレシャンは映画をいまあるものとはまったく別物にしてしまおうというくらいの、大きな野心があるのではないかとさえ思えて来る。(その野心が方向として「正しい」のかどうかなど現時点では誰にも分らない。)デプレシャンの作品は映画史的アーカイブを素材として利用してはいるが、しかしそれは他のもの、例えば他の芸術ジャンルや文化的事象、個々の俳優の身体や自らのプライベートライフもまた、同等に参照されていて、それらはすべてごっちゃになっている。だからデプレシャンを、トリュフォーヒッチコックの後継者であるという言い方は、間違ってはいなくてもまったく充分ではないと思われる。それにしても、『キングス&クイーン』の最後の三十分くらいの展開は、何度観てもグッときて涙が込み上げてしまう。それも、観ている時というよりも、見終わってから、ジワジワくるのだった。
●「TEXT」(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/text.html)に、『地縛霊とモンスター/事前と事後』(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/eigei4.html)を追加しました。これは、ツァイ・ミンリャン『楽日』とアルノー・デプレシャンキングス&クイーン』について書いたもので、「映画芸術」(416号)に、「交錯と断絶」というタイトルで掲載されたものです。