07/10/08

●『発狂する唇』(佐々木浩之)をDVDで。この映画は公開の時に観て、この日記でもかなり強くけなした憶えがある。しかし改めて観るととても面白かった。当時のぼくにはこの映画の面白さを理解することができていなかった。というか、勘違いしていたのだと思う。だが、その後、『血を吸う宇宙』や『ソドムの市』などを観ることによって見方がかわった。(つまりぼくはこの映画を佐々木監督の作品としてではなく、高橋洋の作品として捉えているのだが。)
この映画は「商品」としては、あえて狙ったカルト、ネタとしてのチープな悪趣味というような文脈の上に置かれている。公開当時、ぼくはその感じがすごく嫌だった。しかしそれはあくまで、商品としてこの作品を「売る」ための位置づけであって、実は高橋洋の一連の作品はネタとは程遠い、むしろ他者を必要としない、批評されたり理解されたりウケたりすることを欲していない、徹底した原理主義的な態度から出来ているのだと思われる。それは、共感によってではなく、解読によってしか解かれないようななにものかである。(自ら主張することなく、ただひっそりと読まれることを待っているという意味では、他者を欲しているのかも知れないが。)
しかしここで原理とは、映画の原理とかいうことではない。それは、自らの身体に意識以前に刻み付けられたしまったものに対して、どこまでも忠実であるという意味での原理主義なのだ。高橋洋の作品では、人はいともたやすく、しかも残酷に人を殺すし、また、いともたやすく殺される。世界は苦痛と陰謀と暴力に満ちていると同時に、その死はきわめて薄っぺらである。この世界では、死より因果の方が重いのだ。この世界で死が薄っぺらなのは、人が死によってでは決して苦しみから解放されないからだ。だから人は、死んでもおな、再び苦しむためにこの世に帰って来る。一度刻み付けられた因果の徴は、個人の死を超えて果てしなく反復する。だから「私が死ぬ」ことには重たい意味はなく、殺し殺されることが何度も繰り返されることの苦痛の方が重いのだ。これは高橋氏の哲学とか世界観とかではなく(哲学とか世界観とかの次元でこんなことを言ったって、それはたんに幼稚なだけだ)、ふと気づいた時には既に自身に刻みつけられてしまっていた、自分では動かしようのない世界への感触なのだろう。そして高橋氏の作品には、常にこの感触が刻まれているという意味で、原理主義的なのだ。
因果が死を超えるという感覚は、当然物語的には「血」の話となる。呪われた血をもった一家が、訳も無く、意識すらせず人を殺しつづける。しかし実は、呪われた血をもつ一家だけが呪われているわけではなく、それに関わり、そこに群がる全ての人々がこの呪いのなかに含まれているのだ。あらゆる人々が呪いのなかに巻き込まれ、互いに果てなく殺し合う地獄のような光景は、しかしいつしか妙な熱狂を、よろこびであるかのような熱をも帯びる。もしかすると、殺し殺されることの苦痛よりも、この妙な熱狂の方がより強い恐怖として刻まれているのかもしれない。そこでは、個の死の「軽さ」は救いではなく、苦痛の永遠の持続を意味する。そしてこの恐怖が(因果の連鎖が)解除されるためには、人智を超えた「何ものか」の到来が必要であり、その「何ものか」の到来を巡って、オカルト的人物と裏の巨大組織とが、互いに対立しつつ動いている。これはまったく典型的な(困った人の)「妄想」のあり様そのままだと言える。(テレビが話しかけてくる、というのもまた、典型的な妄想のあり様だろう。)しかし高橋洋は、このような典型的な、あやしいトンデモ妄想と、たんに「ネタ」として戯れているのではないように思う。それはあきらかに(理性的には)、チープで、薄っぺらで、幼稚で、バカげた妄想に過ぎないと「分って」はいるのだが、それを充分に理解しながらも、どうしてもそこにあるリアリティに引っ張られざるを得ないのだ、という感じだと思う。こんなものはまったくバカげている。しかし、私は何故かそのような「世界」にこそリアリティを感じ、そこで生きているかのようなのだ、と。(高橋氏の作品は、このような自身のリアリティに常に忠実だという意味で、原理主義的なのだ。)だから、そのチープさや俗悪さを作品として意図的に反復させて、半ばそこにはまり込みつつも、その世界を(そして自分自身を)「笑う」しか仕方がないだろう、というような。それは、外側から作品世界を操作するような「メタ」的な視点に立つということではない。メタ的視点に立てないからこそ(それを拒否するからこそ)、自らの手で作品を繰り返し作り、その作品世界の微妙さのなかで、なんとか「笑う」ことが可能な場を成立させなければならないということなのだと思う。だからこそ作品に、たんなるネタを超えた力が宿る。