07/10/10

●上野の東京都美術館で、フィラデルフィア美術館展。モネ「睡蓮、日本の橋」、セザンヌ「ジヴェルニーの冬景色」、ブラック「フルーツ鉢のある静物」、エイヴリー「黒のジャンパースカート」が良かった。ピサロもモネも、いかにも「印象派」っぽい、甘い色彩の絵ばかりだったのだが、この媚びた選択はちょっとどうかと思った。コローはともかく、クールベやマネはあまり良い作品ではなかった。学生の頃、ドガの「室内」をすごく観たかった。今観ると、演出過剰でややうんざりするのだが。ピカソの自画像は、良くも悪くもピカソの資質が素直に出ている絵で、ちょっと良かった。キュービズム風の絵が並んでうんざりしているところにブラックの絵があると、そこだけが輝いているように見える。マティスの「青いドレスの女」はもっとサイズの大きい絵かと思っていたのだが、意外に小さくて驚く。(作品保護のためとはいえ、マティスの絵にガラスをはめるのはやめて欲しい。)モネの「睡蓮、日本の橋」を観ながら、セザンヌは最晩年のモネを観ないで死んでしまったのだなあと思った。「モネはたんなる目にすぎない、しかしなんと素晴らしい目だ」と言ったセザンヌが、もしこの絵を観ていたらどう思っただろうか。おそらく「これは素晴らしい達成だが、だがその達成は、モネの方向性が基本的に間違っていたことを証明してしまってもいる」というようなことを思ったに違いない。エイヴリーは良い画家だなあと、改めて感じた。ホッパーとエイヴリーには、その後のアメリカ型色彩絵画(カラーフィールドペインティング)の可能性の全てが、既に備わっている。ホッパーはちょっとダサめで朴訥としているが、エイブリーは無茶苦茶センスが良い。趣味の良さだけで絵を成立させることが出来る程に。(ホッパーの絵はこの展覧会にはない。念のため。)日本で、エイヴリーとフランケンサーラーの本格的な展覧会が開催されることを願う。(エイヴリーの色彩を観ているとフランケンサーラーを思い出すということで、この展覧会にはフランケンサーラーもない。念のため。)
●映画は、自ら動くことで観る者の動きを奪い、絵画は動かないことによって観る者に動きを強いる、とぼくはいつも思う。特にセザンヌ。ぼくは、セザンヌの絵を落ち着いてじっくりと観ることが出来ない。まず視線が決して落ち着かなくて常に動いているし、胸がゾワゾワして、貧乏揺すりのように体を揺らしたり、首を左右に傾げたり、二三歩動いてみたりと、体も常に動いていて、ソワソワ落ち着かない。にも関わらず(だからこそ)「結果として」セザンヌの絵の前には長い時間留まってしまうのだ。落ち着かないからこそ、常に一定の緊張と注意が、絵に対して払われている状態がつづく。セザンヌの絵をうっとりと眺めることなど想像できない。絵画は自らが動くことがないため、それを観る者の視線を(解決しない)動きに誘わなくては、一瞬にして理解され、消費され、立ち去られてしまう。じわじわと滲みてくるような色彩の味わいや、細部の細かい描き込みなどで、観る者の足を止め、視線を留めることも出来るが、それだけでは充分ではない。セザンヌの絵は、無数の音が同時に鳴り、そのそれぞれが独自の動きをもち、しかしそれぞれ密接に関係していて、その全てを同時に聴くことなどとても出来ない、というような状態に似ている。だから、あの音からこの音へ、この音とあの音の関係から、あの音と別の音との関係へ、という風に注意が常にずれ込み、移ろって落ち着かず、しかしそのような状態がしばらく続くうち、ある時ふと、その全ての音の関係が同時に捉えられたかのような瞬間が訪れ(おそらくその時、時間の外にある複雑な構造が感覚的に把握され)、その時に「セザンヌの空間」としか言えないようなものが、ガツンと立ち上がる。それは注意を少しでも緩めると、すぐに逃れ去ってしまうようなものなのだが。
セザンヌの絵の前に長く留まっていると、いろんな人がセザンヌについて喋っている声が聞こえてくる。「水彩画風に、ちゃちゃちゃっと描いてるのね」みたいに言う人が多い。余計なお世話だけど、そういう人には、「セザンヌは一筆加えるのに、何時間も迷ったり考え込んだりするような画家なんですよ」と教えてあげたい。そのことを知るだけで随分と見え方がかわってくると思う。(知識によって見方が分るのではなく、知識によって「水彩画風」という紋切り型の偏見が取り除かれるのだ。)速く描くことによってしか描けない絵もあるけど、それでは決してセザンヌのようにはならない。素早く動くためには、その動きが成立するためのフレーム(地平)が安定している必要があると思うのだが、セザンヌは決して事前には成立していないフレームを、一筆一筆の筆触の複雑な関係によってつくりあげようとしているのだから、素早い動きとはまったく別のものが必要とされる。「ジヴェルニーの冬景色」は、描きかけのようにも見える、キャンバスの地が大きく残されている絵なのだが、だからこそ、普通のバランス感覚からみれば、このフレームのなかを、こんな順番で筆を入れてはいかないでしょう、という違和感がはっきりと見える。(速く描くと、どうしてもフレーム内でのバランスをとってしまう。あるいは自分自身の身体的な癖が前景化してしまう。)それは、絵の内容(一つ一つの筆触)が、物理的なフレームであるキャンバスのひろがりを裏切っているかのようだ。しかしさらに注意深く見てゆけば、その偏りが、これ以外にはあり得ないものだということが理解されるような、ある「空間」が立ち上がってくるのだ。