07/10/27

●京橋のギャラリーKで、稲垣真幸展、府中のLOOP HOLEで、大槻英世展。二人とも大学の後輩ということになる。年齢的に、十歳とまではいかなくても、だいたいそのくらい離れていると思う。それだけ離れていると、おそらく、美術というものに初めて触れた時に見えていたものというのか、バックグラウンドになるものというのか、学生時代に影響を受けたものというのか、そういうものがまったく違っているのだと思う。特に、ぼくがその影響下にある最後の世代だと思うけど、バブル期までの日本の美術と、それ以降とでは、決定的とも言っていいような断絶がある。(一応、戦後からバブル期くらいまではには一定の連続性があるように思われる。)自分が学生の頃に一生懸命に観たり学習したりしたものは一体何だったのか、と思うくらいに、価値観とか作品の評価のあり様とか、あるいは作家としての凌ぎ方みたいなものまで、急激に様変わりしたように思う。ぼくなんかはまったく狭間の世代だという感じがあり、旧世代の価値体系には乗り遅れたし、新世代の感覚には違和感がある。(ぼくは旧世代の方が良かったと言っているわけではない。)
とはいえ、最初は違和感を感じていた自分より下の世代の作家の作品も、その作家が十年くらい真面目に制作をつづけているならば、やっぱ、絵を真面目に追求していれば、必然的にこうなってくるよなあ、と、バックグラウンドが全然違うと思われるぼくなどにも納得できるようなものになってくるのが面白い。話を世代論的に一般化するのは、それぞれの作家に対して失礼になるのだが、最近、自分よりも十歳くらい年下の作家の作品を観て、そのように感じることがよくある。
稲垣くんの作品を観るのは三度目なのだが、変な言い方だけど、だんだんベタに「画家」になってきちゃってる、という感じだ。ファイルで初期の作品などを見せてもらうと、いかにもイマドキ風の作品で、絶対その方がウケがいいと思うのだけど、だんだんオーソドックスになってくるというのか、真面目に絵を描くようになってきている感じなのだ。作品としては、風景をモチーフにしつつ、異なる装飾的なパターンをぶつけて、その落差によって空間を生み出してゆくような作品で、ポップな感触を残しているのだが、このような作品の場合、風景は写真などを利用して描くことが多いと思うのだけど、稲垣くんは自分でしたスケッチをもとにして制作しているそうだ。そのスケッチも見せてもらったのだけど、本当にベタにスケッチで、「こういうことをしはじめると、だんだん深みにハマるよね」みたいな話をした。ぼくも最近、ベタなクロッキーとかをやってたりしたこともあって、絵を描くことの面白さの基本はこうだよね、みたい話になるのだった。ベタにスケッチしたり、ベタにクロッキーしたりすることは、「現代アーティスト」にとってかなり恥ずかしいことで、はじめはどうしても格好つけた感じでアートっぽく描いてしまうのだけど、しかしやっているうちに面白くなってハマってしまって、どんどんベタになってくる。それを自分の「作品」とするかはともかく、絵を描くというのはどういうことかということを体で掴むためには、こういうことが最も有効であるように思う。もっとも、それは十年以上「現代絵画」についての試行錯誤があった上で発見で、同じようなことを受験生の頃にやってた時は、なんで今さらこんなことをさせられなきゃいけないのか、とか思ってたわけだけど。
大槻くんの作品ははじめて観た。とにかく絵の具の「塗り」の技術が半端ではなくて、それだけでこの作家がいかに真面目に絵画に取り組んでいるのかが分る。勿論それは、技術のための技術ではなく、作品のあり様を決定する、作品がそのようなものであるために必然的な技術なのだ。大槻くんの作品は写真や図版では絶対に再現不可能なもので、その、フラットで光沢のある表面には、常にその作品を観る自分の姿や背景が映り込む。さらに、おそらく何層か塗り重ねられて生み出されるのであろう深みのある色彩と相まって、視覚的には絵の表面の位置の確定が困難になる。つまり、絵が「そこにある物質」としては、捉え難いものになる。それは、図像が映像的に描かれている作品ではなくて、物質としての作品自体が映像化して捉え難いものになるような作品で、それによって、そこに描かれた像の儚さが、儚さとしてのリアリティを持つ、と言えばよいのだろうか。その徹底して滑らかな表面は、描かれた図像以外に目の引っかかりを持たないのだが、そこに描かれた電信柱や雲もまた、表面に映り込んでくるもの以上の実在性があるわけではなく(映り込みは観者が位置を変えるたびに変化するし)、視線はどこにも決着せず、しかしそれが電柱と雲だということはすぐに分るから、その認識と視線の浮遊とが乖離して、その像がまるで、思い出せそうで思い出せない、もどかしい記憶のようになる。(一方、白の絵の具の物質的な側面が前に出ている赤い作品は、その物質性の見せ方、落差の仕掛け方がいまひとつ単調なようにも思われた。)