07/10/29

●何年かぶりに『カンバセイション・ピース』(保坂和志)を読み返していて、何故か、タルコフスキーの『惑星ソラリス』の最後のショットを思い出した。ソラリスの海に浮かぶ主人公の家を俯瞰で捉えたカメラが、ずっと引いてゆくショット。(『カンバセイション・ピース』は、ソラリスの海に浮かぶ小津安二郎の家なんじゃないか、と。)
●で、読むのを中断して、こちらはもっと久しぶりに『惑星ソラリス』をビデオで観た。この映画は、タルコフスキーの作品としては、映画として弱くて、この映画の面白さは主にその「お話」の次元にあると思う。
主人公の科学者は、ソラリスによって物質化されて現れた、十年前に死んだ妻の幻影を、「これが罰なのか贈り物なのか分らないが」と言う言い方で示す。それは、彼のなかで彼女がまだ死に切っていないということなのだが、それは、彼女の死に対する後悔と後ろめたさがあるからだ。彼女は夫婦喧嘩の後、自殺する。そして、不仲の原因はどうも彼の方にあるらしいことが匂わされている。激しい喧嘩の後、彼は家を出る。その際、彼女は「死ぬ」という言葉を口にする。しかし彼はそれを本気にせずに、そのまま立ち去る。しばらくして彼は、家には彼が実験用として持ち帰った毒物があったことを思い出す。翌日になってから、心配になった彼が家へ戻ると、妻は毒物を注射して既に死んでいた。(幻影には、その注射の跡が生々しく残っている。)
ここでは、彼の後悔は複雑に絡み合っている。彼はただ、不仲の原因となった妻への裏切りを悔やんでいるだけではない。彼女の「死ぬ」という言葉を真に受けなかったこと、毒物が家に持ち込まれているのを忘れていたこと(あるいは、それを家に持ち込んでしまったこと)、そして、毒物の存在に気づいてすぐに家に戻るのではなく、戻るのが翌日になってしまったこと等をも、悔やまざる得ない。もし、死ぬと言う言葉を本気にしていたら、もし、毒物を家に持ち込んでいなかったら、もし、気づいてすぐに家に戻っていたら、そのような幾重にも重なる「もし」が、彼の罪悪感と疾しさとを常に刺激しつづける。
彼が、罪悪感や疾しさを感じ続ける限り、彼女の存在は彼のなかで生々しく生きつづけるだろう。もし、彼女が偶然の事故や長く煩った病などで亡くなったとしたら、死後十年もたてば、その存在は遠くなり、想い出として納まるべき場所に納まってくれたかもしれない。しかし、彼が疾しさを心に感じるその度に、彼女の存在は繰り返し生々しくたちあがり、そしてその彼女の存在の生々しさが、疾しさという感情を活気づけ、罪悪感が色あせることを禁ずる。罪悪感によって、彼女は常に彼の近くに居つづけ、彼は常に彼女を近くに感じつづけることとなる。彼のなかで死者が、なかなか死者という位置に納まってくれないのだ。頭の中の現実と、頭の外にある現実とが乖離しつづける。これは彼にとってひどく苦痛であるだろうが、しかし彼が苦痛とともにある限り、彼女は常に彼の近くにいる。彼にとって、物質化した彼女の生々しい幻影が、「罰」であるだけでなく同時に「贈り物」であるというのは、そのような意味でだろう。しかし贈り物は常に罰と同時にしかあらわれない。彼は苦痛のなかにいつづけることによってしか、愛の対象を維持できないのだ。この物語が、人を強く惹き付けるのには、このような意味で、愛の対象が常に苦痛とともにしか立ち上がらないということ(苦痛を手放せば、愛の対象を失うということ)に、強いリアリティがあるからだろうと思われる。それにしても、人間の頭のなかは、なんと難儀なものだろうと思うのだが。
●そういえば、小津の『宗方姉妹』で木暮実千代は、長年、山村聰と夫婦をつづけながらも、ずっと上原謙を思い続けていた。そしてとうとう、夫と別れて上原謙と結ばれようかという時、夫が自殺する。夫の自殺によって、木暮実千代上原謙と結ばれることを完全に断念する。この映画の最後で木暮実千代は、妹の高峰秀子に言う。夫が死んでから、ずっと夫から見られているような視線を感じている。ずっとうまくいっていなかった夫が、死んではじめて近くに感じられるようになった。夫が死んではじめて本当の夫婦になれたような気がする。これからはこの夫(の視線)と一緒にずっとやっていく、と。人間の頭のなかでは、何と奇怪な演算が行われているのかと思う。