07/11/04

●昨日の講演の保坂さんの発言について、気になったことをもうちょっと。保坂さんは、「エッセイでは、例えば東京タワーは千代田区にある、と書かれれば、それはすぐに現実と照らし合わせて間違いだということになるけど、小説でそのように書かれた時、それは外の世界との関係ですぐに間違いだとは言えず、一旦その判断が保留されて、その記述が適当であるかどうかは、小説全体によってしか支えられない」ということを言っていた。これを、小説は小説として閉じられた世界で成立する、という風に受け取った人も(質問などを聞くと)いたみたいだけど、それは微妙に違うように思われた。
ここで重要なのは、小説に書かれたことの真偽は直ちには決定できずに保留されるということと、その真偽を支える根拠は小説全体にしか求められないということ、という点にあると思われる。小説を形作る細部と、その細部を組み合わせるメカニズムとの関係によってしか、「東京タワーは千代田区にある」という記述の真偽は検証され得ない。そのことが、小説に書かれたことは、小説内の世界として成り立てば良いということと微妙に違うのは、「小説内の世界」などという安定したフレームが事前に想定されるのではなく、ある記述を保留し保持したままで読み進める時間のなかでは頼るべきものが何もない、ということなのではないか。ある記述に対する真偽の判断は、現実(小説の外)の規則によっても虚構内の規則によってもすぐには決定されず、決定されないからこそ、そこに書かれていることのひとつひとつをいちいち「真に受け」て読み進め、それを保持しつづけ、そしてその最終的な決定(しかしそれを「最終」とする保証はどこにもないのだが)は、「いちいち真に受けて読んでいた時間の総体(その時間を経てきた自分の脳-身体)」によって保証され検証されるしかない。(その外の根拠には逃げられない。)だから、真偽の根拠はあくまで「小説の全体」やそのメカニズムにあるのであって、「小説内の世界」にあるのではない、ということなのではないか。
カンバセイション・ピース』のラストの、綾子の歌は骨になり土になった犬や猫たちにも聞こえていただろう、ということを、そこだけ取り出してオカルトだとも、そうではないとも言えない。それは、この小説を最初から読んできてここにたどり着いたときに、この記述がどのように響くのかによってしか決められない。そしてこの「結果」を、小説全体(最初の文から出発して、そこまでたどり着いたということ)から切り離して「そこ」だけ他で利用することも出来ない。あるいは、『インランド・エンパイア』のラストのダンスのシーンは、そこだけ取り出して観ても、何ということもないものかも知れないが、三時間の迷宮の果てにたどり着くことによって、素晴らしい瞬間となる。(何かを「真に受け」て受けとめるためには、時間を圧縮することが出来ない。)
●ただ、この発言は(ぼくの記憶が正しければ)『マルホランド・ドライブ』のカウボーイのシーンを観て「フィクション観が揺さぶられた」という話からつづいていた。『マルホランド・ドライブ』に出て来る映画監督は、黒幕から指示された主演女優を断ったことで、映画から下ろされるだけでなく全財産も凍結されてしまう。そこで謎のカウボーイと会うことになる。カウボーイは監督に、「人の態度はある程度その人の人生を決める」とかいうような意味のありふれた人生訓を話す。それに適当に相づちをうつ監督に、話を合わせているだけだろう、本気で同意しているのかと問いつめ、心から正しいと思ってると答える監督(だが、態度としては「そういう態度」ではない)にカウボーイは、何を?、と問い返す。すると監督は(やや早口で)、カウボーイが言った人生訓をまったくそのまま録音を再生するように反復する。(だが、日本語の字幕では、カウボーイの言ったことの「意味」を要約して答えたことになってしまっている。)保坂さんはこのシーンを観て「フィクション観が揺さぶられた」と話し、それにつづいて上記の話になった。この二つの話の繋がりというか関係を、ぼくは掴めていない。
とはいえ、ことさらこの二つを関連づける必要はないのかもしれない。この話はこの話として面白いので、書き留めておく。