07/11/06

●『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』(保坂和志)。収録されているエッセイは全て初出で読んでいるのだけど、纏めて読むとまた印象がことなる。熱くて真面目な調子に圧倒される。読んでいる間中、「お前はいい加減なんだよ」と言われつづけているようにさえ感じた。ここで保坂氏は、現状のどうしようもなさを、決して「どうしようもない」と思うな、と強く言っているようだ。どうしようもなさをどうにかすることが出来るとしたら、それは、決して「どうしようもない」とは思わないことしかない、と。そんなこと言って、じゃあお前は具体的にどうすればいいと思っているんだよ、と問い返されたとしても、そんなの知るか、でも、嫌なものは嫌だし、納得できないものは納得できないのだ、と言い続け、そしてそこに留まって考えつづけろ、と。
●気になった部分をいくつかメモ。
《回想される情景の中では今はすでに死んでいる人が生きているのだが、見方を変えれば、回想される情景の中にいる自分自身もすでに死んでいる人と同じように戻ってはこない。私は今すでに死んでいる人と会うことができないが、回想の中にいる自分自身とだって会えるわけではない。私がよく知っている私はそういう死者の領域にちかいところにいるのだ。》
《しかし、フロイト的に考えてみても、対象(世界)について思考するときに、対象を思考するサイクルの中に〈思考する自分〉という項が入っていないかぎり、思考する人間の中に内省的思考が芽生えず、「自分が全能である」という幻想は、思考の点検を受けないまま温存されてしまう。》
《彼らには私有財産とか知的所有権という発想がないから、真似ることにも真似られることにも何も抵抗がないのだが、もっと根本的な理由は所有権うんぬんということではなく、自我の境界がはっきりしていなかったからだ。Aさんの手先の動きを見るBさんは、時間が経つとその手先がAさんのものだったか自分のものだったかどうでもよくなっている。大事なことは、素材に対して働きかける手先の動きとして、いままでよりも有効な動きが自分たちの中に生まれたことであり、それが群れの中の細工好きな者たちの知識や技術として共有されてゆくことになる。》
《---というと、話は今回の最初(入口)にもどってしまうわけだが、入口にもどってしまったとしても、はじめて通過する入口と二度目に通過する入口では自分の中が完全に同じというわけではない。
堂々巡りとしか見えない話でも、二度目三度目では必ず自分の中に変化が起こっている。変化のほとんどは劇的なものでなく、堂々巡りの回数を重ねて起こるわずかなものなのではないか。》
イラクではいまでも毎日のように自爆テロが起きている。私はあれをイスラム過激派と米国との戦いとは思わない。指揮する階級の人間がいて、それに煽られたり洗脳されたりして進んで死んでゆく人間がいて、それに巻き込まれて死ぬ人たちがいる。すべての戦争がそうとしか私には思えない。言葉を換えれば、政治的な理念や思想信条が何であれ、自分は絶対に死なないポジションをまず確保してからあれこれ言う人がいて、もう一方でそういうポジションの人たちから「いつ死んでもおかしくない」と位置付けられている人たちがいる、ということだ。》
●「自分が生まれていない可能性」の話は、どうにも納得しがたくてモヤモヤする。このモヤモヤというのが問題の吸引力でありリアリティなのだが。モヤモヤしている限り、人はそれについて考えざるを得なくなる。