07/11/13

●『ほえる犬は噛まない』(ポン・ジュノ)をDVDで。これはさすがに面白い。おそらくポン・ジュノはたくさんアイデアがある人で、いろんなテクニックも使える器用な人で、だからいろいろやりすぎて『殺人の追憶』のように、何をやりたかったのかよく分らない感じになってしまったりもするのだろうけど、『ほえる犬は噛まない』では、ごく狭い範囲での話のせいか、登場人物たちの性格づけがはっきりしているせいなのか、それともコメディというジャンルによって制御されているせいなのか、様々に盛り込まれるアイデアとテクニックが、たんに要素の羅列という風にはみえなくて、中身がぎっしり詰まっているようにみえる。ただ、唯一ちょっと納得出来ないのは、最後の方でイ・ソンジェが、犬を殺したのは自分だと告白しようとするのに、ペ・ドゥナがあくまでそれに気づかないということで、これはなにか、うまくはぐらかされたような感じだ。ここで、ぺ・ドゥナがその告白に「どう反応するのか」が撮れてないと、この映画は終わらないのじゃないかと思う。別に、何か言葉を喋ったり、行動を見せたりしなくても、リアクションの表情を見せるワンカットでもあればいいと思うのだが(というか、ワンカットだけで示す方が難しいか)。ここでぺ・ドゥナに、どういう反応をさせればよいのか、監督には最後まで分らなかったのだろうとは思う。上手くはぐらかしているからこそ、この映画が気持ち良く終わるのであって、何かしら反応をみせたら、そこは失敗しているようにみえてしまうかもしれないのだが。あるいは、ここで告白が失敗するからこそ、イ・ソンジェの「気持ち」が決してその受け止め手を得られずに宙づりなままであるからこそ(思いが通じないからこそ)、その後の、いろいろあってなんとか教授になれたイ・ソンジェが、大学の教室のなかで見せる、どこを見ているのか分らない無為の表情が、この「どこにも決着しない感じ」が(人生がとりとめもなく「ただ」つづいてゆく感じが)、素晴らしいのかもしれないのだが(このシーンでのイ・ソンジュの佇まいは本当に素晴らしいのだ)。大袈裟さに言えば、ソニアに出会い損なったラスコーリニコフのようなのだ。ここまで書いて、この解決されない感じこそが、この映画の良いところなのかも知れないと、ぺ・ドゥナは気づかなくていいのだと、考えがかわってきた。
●コメディというのはつまり、構造とそこからこぼれ落ちる出来事(アクション)とのズレの間に生じるのだなあ、と、この映画を観ていて思った。だから、『殺人の追憶』ではちょっとわざとらしいようにも思えた「伏線」が、ここでは有効に機能するのだろう。例えば、イ・ソンジェが老婆から犬を奪う場面の坂道で林檎(梨?)が転がることが、その後、トイレットペーパーとして反復される瞬間が素晴らしいのだろう。あるいは同じシーンの、イ・ソンジェの犬を抱いたままの策越えのジャンプが、ポケベルで呼び出されたぺ・ドゥナが管理事務所へ戻ろうとするシーンの、唐突で不器用な策越えとして反復される瞬間が素晴らしいのだろう。あるいは、犬を探す少女のフードを被った黄色い衣装が、犬殺しを追跡する時にフードを被るぺ・ドゥナへと反復され、それがさらに、ポスターを貼るイ・ソンジェの黄色い雨合羽へと受け継がれる時、これがたんに視覚的な類似性(映画的なテクニック)を超えて、「笑い」とともに、その都度異なった「新たな意味」として反復されるからこそ、素晴らしいのだと思う。(『殺人の追憶』の時もそうだったのだが、この監督の「しっとりした雨」の描写は好きだ。)
●この監督は、一面で、ちょっとわざとらし過ぎるような説明的な描写をしてしまいがちなのだが、もう一方ですごく繊細な描写もあって、そのちぐはぐさも面白い。というか、繊細な描写そのものが素晴らしい。例えば、ぺ・ドゥナの親友の太った女の子(とその職場の文房具屋)が最初に出て来るシーンで、ぺ・ドゥナが濡れた傘の先で女の子をかるく突っつくのがロングっぽいカットで示される。このシーンでは観客はまだぺ・ドゥナとこの女の子との関係を知らないから、ぺ・ドゥナはたんに無神経(無配慮)から女の子に濡れた傘をぶつけてしまったのかと思うのだが、その後、この女の子との関係を知ると、これが「意図的な無配慮」であり、親密さのあらわれであることが知れるのだ。すごく何気ない親密さの表現で、こういうところがすごく上手いなあ、と思う。それに、この女の子の職場である、意味不明な程に狭い文房具屋が素晴らしいし、その狭い空間に無理矢理押し込まれるように二人でいるシーンも素晴らしい。あと、亡くなった老婆から受け継ぐ「遺産」が切り干し大根だったりするところに、感動して泣きそうになる。骨壺を連想させるような形態の容器に、切り干し大根を詰め込むぺ・ドゥナの仕草...。
あるいは、イ・ソンジェが犬探しのビラをコピーしているシーンで、ぺ・ドゥナの話から、自分が殺した犬が原因で老婆が亡くなってしまったことを知る切り返しのモンタージュの呼吸。ぺ・ドゥナが、まるで犯人がイ・ソンジェであることが気づいたかのような驚きの表情をみせ、次にイ・ソンジェの鼻から鼻血がつつっと流れ(つまりぺ・ドゥナは鼻血に驚いたのだ)、次にその鼻血がコピー機に垂れて、血の滲みがコピーされる。この展開の意外さと呼吸の素晴らしさは、まさにモンタージュによってつくられるアクションとはこういうものだということを示している。ぺ・ドゥナが、イ・ソンジェの探していた犬を見つけて部屋まで届けるシーンで、イ・ソンジェが部屋のドアを開けるとそこにぺ・ドゥナがいて、ひと呼吸あってその後ろから太った女の子がちょこんと顔を出す呼吸とか、こういうなんでもない小ネタが、絶妙のタイミングでなされているところに才能を感じる。(ただこれは、映画というよりちょっとアニメっぽい呼吸かもしれないのだが。)
あと、イ・ソンジェが犬を見失ってしまったことをなじる彼の奥さんが、彼に向かって金槌を投げ、それに逆切れしてイ・ソンジェが奥さんに向けてそれを投げ返そうとするアクションをみせ、観客があっと思うと、次の瞬間バリンとガラスの割れる大きな音が鳴り、それは窓に向けて投げられたことを知る。こういうアクションのシーンの呼吸の巧みさこそが、この映画を面白いコメディとして成り立たせているように思う。
●草薙幸二郎氏が亡くなられたそうだ。東映セントラル(セントラル・アーツ)は、八十年代に十代だったぼくにとっては、八十年代にまで生き残っている七十年代の痕跡のように感じられていた。それは、まずなにより『ビー・バップ・ハイスクール』なのだけど、映画だけでなく、テレビドラマの『探偵物語』、『俺たちは天使だ』、『プロハンター』、『あぶない刑事』(『あぶない刑事』の頃になると既にあまり真面目には観てなかったけど)でもあり、それらによって決定的な何かがぼくに刻まれたように思う。それらに出ていた、草薙幸二郎、成田三樹夫、あるいは中条静夫といった俳優は、もう、こっちの世界には存在しないのだった。