●寒い日。夕方、買い物に出たら、住宅街の道で、鼻へと吸い込んだ冷たい空気のなかに、石油ストーブに火をいれた時の煤けた匂いがかすかに混じっているのを、粘膜をざらっと擦る軽い刺激とともに感じた。歩いていて、かなり長いこと、その匂いはつづいた。そんなにどこの家も、石油ストーブに火をいれているのか、それとも、この匂いは、今感じている寒さの質から、勝手に連想されて頭のなかで作り出されている幻のようなものなのだろうか。
●ストローブ=ユイレ『階級関係』をDVDで。20パーセントオフで売っていたので、つい買ってしまった。(お金ないのに。)カフカの『アメリカ(失踪者)』を原作としたもの。これは無茶苦茶シャープで格好いい映画で、カットを割るというのはこういうことだ、モンタージュとはこういう風にするのだ、という見本みたいな映画。(130分近くあるけど、ストローブ=ユイレの映画なのに全然キツくなくて、普通に面白く観られる。)前に特集上映で観てとても面白くて、何度も繰り返し観たくなるような映画なので、ずっとDVDを買いたいと思っていたのだけど、今まで何かと縁がなく機会を逃し続けていたのだった。(今日は奮発して『階級関係』を買おうと決心して店に行ったらたまたまなくて、かわりに『モーゼとアロン』を買ってしまったりとか。)
ある場面の全体を示すようなカットがないので、カットがかわるこどに、空間が思わぬ方向に伸縮する。一体、その場に何人の人がいるのかも分らず、えっ、そこにも人がいたの!、みたいな驚きが、カットがかわるたびにあるような映画。その場の全体像が示されず、次のカットで何が起こるのか予測出来ない不穏な感じがずっとつづくという意味で、カフカの書き方に忠実で、この映画がストローブ=ユイレとしては特異な撮り方でつくられているのは、おそらくカフカのテキストに従っているということだろうと思う。空間が時間に従属しているというか、空間が時間に対して無防備になっているというか。ただ、カフカにはなくて、この映画にあるのは、相手の人物が延々と喋っている時に、それを聞いているカール・ロスマンのリアクションが、切り返しのカットとして示されることだろう。リアクションと言っても、ほとんどがただ無表情で突っ立っているだけなのだけど。(いわれのないことで一方的に責められていても、カール・ロスマンはただ黙ってそれを聞いているだけなのだ。冒頭の火夫がそうであるように。)小説だと、人物が長々と喋ると、それを聞いている別の人物の存在は読者の頭のなかで後退するけど、映画では無言で聞いているだけの人物の存在が切り返しで示される。この無言の切り返しのカットによって、この映画は、自身が映画であることを主張しているように思う。