07/11/21

淵野辺のプルヌスホールに、OPAP(桜美林大学パフォーミングアーツプログラム)の『ゴーストユース』(作・演出/岡田利規)を観に行った。岡田利規が、学生と一緒につくった舞台。微妙な部分も含めて、とても面白かった。淵野辺は割と近いので観に行ったのだが、行ってよかった。
●まず思ったのは、二十歳そこそこの大学生に、こんなに難しいことを要求するのか、ということ。岡田氏は、相手が学生だからといって決して手加減せず、おそらく現時点での自身の関心を、ガチでぶつけているのではないだろうか。俳優やスタッフが学生だから要求の質をちょっと下げて、そこである程度の完成度を目指す、というものではないように思う。相手がそれをどの程度理解し得るのか、受けとめ得るのか、ということを事前に想定してそれに合わせるのではなく、こっちも本気でやるからそっちもともかく本気で受け止めろ、みたいな。教師として学生に対するのではなく、たんに若い俳優やスタッフと一緒に仕事をする、というスタンスのような感じがする。(そしてそれが直接、作品の内容とつながっている。)
●とにかく、舞台が広くて、俳優が沢山でてくる。最後に俳優全員が並んだときに数えたら19人もいた。この19人が、夫婦とその妻の友人という、たった3人の登場人物を演じる。岡田利規の作品において、一人の俳優が複数の人物として語り、あるいは、一人の登場人物が複数の俳優によって演じられるのはいつものことだけど、それが19人の俳優の間でなされるのが、単純に凄い。男性の俳優は常に夫であり、女性の俳優が、時に妻であり、時に妻の友人となって、その役割をリレーする。(正確には、俳優は常に、役の人物であるのと同時に観客に向かって「語りかける人」でもある。俳優は登場人物を演じるというより、俳優自身の身体として舞台上にいて、ある仕草をし、ある語りをし、それが別の俳優へと受け継がれ、伝播する。)同一の主題(例えば、子供の誕生日プレゼントについて夫婦が相談する、あるいは、妻がその友人と電話で会話する)が、19人の俳優たちによって、役割を交代しながら引き継がれ、微妙な差異を含みつつ反復され、展開される。勿論、会話(台詞)だけでなく、様々な動きや姿勢が、舞台上の大勢の俳優たちの間で、反復的に伝播してゆく。大勢の俳優たちが同時に舞台上にいて、それぞれがバラバラに存在しつつ、主題(会話や仕草)が受け継がれ、伝播し、反復される、ほとんど音楽的とも言うべきこの事態は、作品の中盤に、驚く程の複雑さを実現する。(単純に、もっと上手い俳優やダンサーをあつめて、これくらいの規模でもやってほしいと思ってしまう。)
●舞台の中央には時計があり、それは現実の時刻を示している。しかし冒頭、俳優は、現在が午前11時45分であると想像しろ、と要求する。設定としては、主婦が、午前中の仕事を終え、午後の仕事(子供を幼稚園まで迎えに行く)までの、つかの間に「何もしなくていい時間」ということになっている。しかし観客は常に、現実の時刻を示している時計を目にし、それを意識させられる。
あるいは、この話は現在35歳の夫婦の話であるが、それを演じるのは二十歳前後の俳優たちである。俳優たちは、現実には、二十歳前後でありながら、35歳の役を演じている。しかし、設定上では、見た目が二十歳そこそこだけど、それは「何もしなくていい時間」に二十歳の頃の自分を思い出しているからで、実際には35歳なのだ、ということになっている。(見た目は大学生に見えるかもしれないけど、「本当は」35歳なんです、みたいなことが台詞として何度も語られる。)過ぎ去った時を想起している人物であるかのように語る俳優は、実際はその時を生きている人物であり、自身の与えられた役柄こそが、想像されたものである。
このような、両立しない時間の多層性がこの作品の動力となる。35歳の時点から二十歳の頃を想起している作家、演出家の岡田利規と、二十歳の時点から35歳を想像している俳優たちという、噛み合うことのない齟齬が、この作品の根本にあり、それによって作品が、ある緊迫した生々しさを帯びる。冒頭、チェルフィッチュのあまり質のよくないコピーのようにも見えてしまってもいた俳優たちの仕草は、次第に、その「下手さ」によってこそ生々しさを得ているようにみえてくる。作・演出/岡田利規の「作品」としての完成度は、二十歳前後の俳優たちの身体に常に脅かされている。
●その必然として、中盤、高度に音楽的な複雑さを獲得した舞台は、それ以降、「青年の主張」的な、性急さによってその複雑さが脅かされる傾向に流れる。「内容」が急速に競り上がって来て作品としての緊密さに危機をもたらすという傾向は、『エンジョイ』にもはっきりとみられたように思う。おそらく、一直線に作品の完成度に向かうことのない危うさこそが、岡田利規という人なのだろう。しかし、『エンジョイ』ではどこか「他人にかわって語る」という側面があったと思うのだが、この作品では、まさに実際にそこで演じている二十歳の俳優たちの「現実としてのあり様」が、作品としての完成度を揺るがすことになる。この辺りの危うさ、微妙さこそが、この作品の最もスリリングな、キモになるのだろう。
●『ゴーストユース』を観ていて思ったのは、若い頃はとにかく「結果」が欲しかったのだということ。若い時というのは、この先の自分の生のあまりの「長さ」に圧倒され、その寄る辺なさに耐えられず、とにかく何かしらの「結果」によって足場を得たいと思う。(しかし、先のあまりの「長さ」にうんざりしている時から、ある日突然、自分の生の「有限さ(先が限られていること)」に気づいて愕然とすることになるのだが。)だが、「結果」をはやく得たいという気持ちによってこそ、人は何か良くないものに「取り込まれ」てしまうのだが。ただし、そんなことを言えるのはぼくがもう四十歳にもなっているからで、若い時にそれを聞いても、そんなのお前が既におっさんになってるから言えることじゃん、としか思わなかっただろう。しかしだとしても、ぼくはおっさんとして、結果をあせると良くないものに取り込まれる、と言うしかないのだが。
●映像(ビデオカメラ)の使い方やマイクの使い方は、『エンジョイ』よりもずっと納得のいく感じで練られていたように感じた。しかし、携帯メールによって示される字幕の「問いかけ口調」は、ちょっと鬱陶しいようにも思った。俳優による観客への「語りかけ」のなかにある「問いかけ口調」も、くどくなるとお説教臭く感じられた。