07/11/29

●若い画家が二人、アトリエに遊びにきてくれた。アトリエを割とオープンな感じにしていて、気軽に人を呼んで作品を観てもらったり、人のアトリエへも行ったりする人もいて、まあ、広いスペースを数人で借りて共同アトリエにしているような人は自動的にそうなるのだけど、ぼくにとってアトリエは、どっちかというと籠るための穴蔵とか巣穴のような場所で、他人をアトリエに入れるにはちょっとした抵抗があったのだけど、でもまあ、当分作品を発表できるアテもないし、わざわざアトリエまで来て作品を観てくれるという人がいるのなら、もうちょっと積極的に来てもらってもいいのかなあ、という風に思えた。バリバリに制作モードになっているような時はちょっと人には立ち入ってほしくないのだけど、区切りのような時期には、むしろ来てもらって風を通してもらった方がいいのかもとも思った。(とはいえ、狭くてボロくて汚いところなので、来てもらっても決して心地よい空間などではないのだけど。)
●お互いの作品のこととか、セザンヌとかマティスとかモランディとか、あるいは、ピエロ・デラ・フランチェスカとかカラヴァッジョとかの話をしている分には、十歳や二十歳くらいの年齢や世代の違いはあまり関係ないというか意識しないのだけど、その後場所を居酒屋に移して、若い画家の彼女なんかも合流したりすると、ああ、やっぱ若いなあ、と、自分は歳くってしまったんだなあ、と意識させられたりもするのだった。「芸術をやる」というのは、こういう二重の時間を生きることでもあるのだなあ、と。
●これは相手が絵を描いている人だからということもあるのだろうけど、例えば80年生まれの人なんかと普通に話が通じるのは、考えてみれば不思議なことでもある。世代的な違いとか共通項とかを探ったりすることなく、いきなり、「マティスの制作途中の連続写真を見ると、完成作品になるまですごくいろいろやってるけど、完成した作品を観ると割合薄塗りだから、これは描いた上に積み重ねられているのではなくて、一旦絵の具を剥がしてから、その都度新たに描き改めるみたいに描いているのかも(絵の具が積み重ねられるのと、剥離させてから描きなおすのでは、作品の意味というか制作の態度として、かなり違う)」みたいな話が(初対面ではないにしても、二三度しか会った事のない人と)自然に出来ることは、ちょっとすごいことではないか。こういう話は別に、共通の批評的言説とか美術教育とかに媒介されたものではなくて、真面目に絵を描くことを普通につづけていれば、当然こういう問題にでくわすでしょうという点で、普通に話が通じる部分があるということで、たとえ現代の「現代美術」の文脈(というか「市場」)のなかで絵画に狭くてマイナーな場所しか与えられていないとしても、たんに絵を描くというシンプルなことこそが、依然として貴重でありつづけていることの証拠の一つでもあるように思われた。(これには前提として、お互いの作品をある程度は知っている、ということが必要だろうけど。互いに作品を観ればある程度は「分かる」から、いちいち共通項や違いを探ったり、自己紹介したりする面倒がなくなる、ということのなかも知れないけど。)