07/12/17

●昨日も書いたけど、シュヴァンクマイエルの『アリス』ではカットごとに縮尺というかスケール感が少しずつ違っていて、そのためにパースペクティブが成り立たない感じがある。人は、映画館の大きなスクリーンに顔が大写しになったとしても、その顔が巨大化したとは感じない。それは、映画の見方を知らない、はじめて映画を観るような子供でもそうだろう。メルロ=ポンティは、映画には地平がないと言って批判したが、人は、映画の外にある地平において(映画の外にある基準に照らして)、映画を観る。人は、普通、いきなり人の顔が巨大化することはないと知っているから、他の物との大きさの比率に変化がなければ、顔が巨大化したのではなく、たんに部分が大写しになったのだと理解する。しかし『アリス』では、そこに人形や模型によるアニメーションが含まれるために、物のスケール感に関して、映画の外と照らし合わせて判断することが出来ない。唯一、スケールの基準になるのが生身の人間によって演じられるアリスのみで、しかしこの基準となるはずのアリスが、物語上で大きくなったり小さくなったりするということは、アリスの役をやっている女の子が実際に大きくなったり小さくなったりするはずはないので、セット(模型)や人形との大きさの比率が変化するということで、まさにその基準そのものがブレてしまうということになるだろう。しかも、「ある大きさ」の時のアリスと別の人形や模型との比率が、(アニメーションの部分は別に撮影され、後から繋げられるという理由もあるだろうけど)カットごとに微妙に狂う。つまり、この映画の内部の空間においては、映画の外の現実的な空間の「地平」が役に立たなくなる。このことが、この映画の「世界」を成立させている。
これはおそらく、『インランド・エンパイア』で、形が歪む程のどアップがしつこく多用されることとも関係がある。いかに観客が、人の顔の普通のサイズを熟知していて、それが極端に大きくなったり小さくなったりしないことが身にしみて(というか、おそらく生得的に脳に組み込まれて)いたとしても、他の基準と切り離された顔ばかりが、しかも、人(顔)によってその近さやゆがみ、ピントのボケ方等が微妙に異なっている(つまり、ある顔とべつの顔とが存在する空間がなめらかに繋がっていない)アップばかりをみせられつづけていると、その「顔」のイメージが、映画の外側にある現実的な空間のなかにあるそれと、同じ基準(地平)のなかにあることが疑わしくなってくる。つまり、空間的な原基が失われてしまって、「そこにあるメカニズムを測るためには、そのメカニズムの外の基準は使えない」という空間が出現する。(しかも、途中で、縮尺不明でパースペクティブがおかしい、ウサギ人間の部屋もあらわれる。ここで、部屋のサイズは箱庭のようにみえるのだが、顔の隠された人間たちは、普通の人間のサイズのようでもある。)
「そこにあるメカニズムを測るためには、そのメカニズムの外の基準は使えない」という空間が出現すると、そこには、そのシステムの外が存在することの徴候であり、同時に、システムの外へ出ること(メタレベルに立つこと)を禁止する蓋でもあるような(外が内側にたたみ込まれたような)幽霊のようなイメージがあらわれる。『アリス』においては、それはおそらくアリスの「口」なのだが、『インランド・エンパイア』には、そのような記号がたくさんあるのではないだろうか。